時代的遷移(生活編)

文化は神から人(や文学)、心理学に救いを求めてきたという。

いまなら、精神医学あたりで、それも下り坂な感じか?
必ずしも、それをして救われたり幸せにはなったりするとは限らない。

また、家族主義や部族主義は一時生じた核家族から解体後、再生しているようにも見える。

前に二極化について書いた。
しかし、基本は拠り所や、つるんで安心したい場所が必要なことに通じているようだ。

「おかれた場所で咲き…云々」ではないが、明らかに落ちていっているのに、落ちながら安定を求める様は、不安定の中の安定だ。

富あるものは富あるところで、貧あるものは貧あるところで、みたいに。

拝み屋みたいな医者が昔はいたという。

問題があると言われ不完全ながらも、前時代的父性のような存在で、あれしろ、これしろと、言ってくれる者だったのかもしれない。

人間は迷うこともある。

古代の王様に魔術師がいたように、方向を決める者の傍には、視野の広い存在が必要だったのかもしれない。

しかし、個々には性質がある。
それを無視して何かさせるのは無理なことはある。

たいていは、仕方なく世の中に合わせ自分を曲げながらいきているのだが。

ただ、他人に方向を指し示すというのも、一種の能力だろう。
彼はこうした方がよい、彼は難しいからああした方がよい、など。

自立が盛んに言われた時代もあったが、それも難しいのが分かったのは、いわゆるロスジェネが自分探しをして、成功か失敗かの道が分かれた部分かもしれない。

残酷に言えば自立がで出来なかった者もいた、ということだ。
これを全員にアナウンスしたことは明らかに罪作りだっただろう。

やればできる、は皆がそうとは限らないは、小声で言っていたかもしれない。

あるいは、壮大な「ふるい」にかけていた、ことを妄想してしまう。

要は競争原理の一環だ。

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メンタル医が良いことをいったり、本にしたりしても、どうも様子がおかしい。

売っ子の医者が売れそうなものを作れば売れるが、果たして、どれくらいこぼれ落ちがあったか?は研究してもいいはずだ。

しかし、利益にならなければ誰もしないし、時間も待ってくれない。
人間は歳を取る。

せめて、生活を負けないにしても、上手く降りれたり、現実的なフォーム…ビジョンを与えられるか?の方が、隠れた需要はありそうだ。

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