負の面を見ること日常ち

私は昏(くら)さを考える事がある。

人によっては深淵を覗くと言うかもしれないが、似ているけどそうでもない。

割り切る人は、正常と異常にして分けてしまうのだろうけど、そうはいかないのが私の性分だ。

なだいなだ氏が、正常と異常は程度の問題である、と言ったのは的確で表現が上手かったと思う。

氏は更に、誰にでも正常と異常の部分があるし、たとえばアルコール症などは、何割くらい正常から離れたか?で測るのだ、といった。

正常と異常…または狂気、線引きはどこにあるのか?

文化人類学を持ち出すまでもないが、人間の日常生活はハレ(祭り・躁)、ケ(日常)、穢れ、と説明できる。

日常を営むには穢れを入れば混乱したり、秩序が危うくなる。
従って、それらを入れないような古い風習があったらしい。

私は何も昔が良かったというのではない。
昔も悪く不条理なことはあっただろう。

ただ、何が良く、何が悪いか?というのは、感覚的に線引きされていた気がするのだ。

昨今の、若い子(だけじゃないが)のイタズラや生死について行き過ぎた扱い、視点というのは、日常を覆す作用であり線引きを失っているように見える。

半世紀前なら、機動隊が出て学舎を取り囲んだとか、四半世紀前なら非行バイクを取り締まったとかだろう。

コレは何を意味するか?といえば、先の文章に載せた防御(壁)である。

河合隼雄氏は、若い子やカタルシスを求める者は大人世界を試す(≒おちょくる)事があるといった。

そこで大人が、若い子の気持ちも分かるといって、便乗したり、狼狽えるのでなく、壁にならなければいけない、と厳しいことを言っていた。

しかし、このご時世、撥ねつけるだけの余裕が大人にあるだろうか?と私は思う。

国は少子化対策で、躍起になっているようだが、ただ産めよ増やせよではなく、世の中にとっての壁もセットにしなければ、おかしなことは増えると思う。

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