村上さんの言う「暴力性」を考える
意訳「なぜ、我々の住む世界には暴力があるのだろう〈中略〉我々の地面の下には暴力が渦巻いているのではないか」
村上文学は、時にノルウェイの森など、恋愛ものに分類されるが、私は暴力性を描く姿に惹かれる部分がある。
村上さんはキツ言い方を「約束された場所」で語っていたが、小説を読めないという人間もいるらしい。
直接的かつ、現実的な見方というのは、視野が狭くなる…または深刻になり、可能性を排除する傾向がある。
物語や、ある種の鈍臭さというのは、時間稼ぎに見えるが、同時に物事の豊かさを目指し、作り出すことがある。
いわば、可能性造りである。
SNSが良く煮詰まるのは、極論を言い出し、それをぶつけ合う所にある。
言葉は刃物にもなる。
刃物は容易に外に持ち歩かないように、極論というのも、そう簡単に見せるものでは無い。
P氏などは、以前のツイッタなどでは、面白いことを言うヤツがいたが、いまは派閥だらけの世界になり、つまらなくなったというが、その通りである。
鋭い箴言や予言のような言葉はまだましなのはクッション性があり、誰しも当てはまりそう…または可能性の段階にあるからだ。
SNSでは、人間同士の顔合わせどころか、脳と脳を合わせているようなもので、直接的になる。
(SNSに限らないが)直接的かつ、煮詰まったときこそ「分からなくする」あるいは…予言的な言葉に後退させる必要があるかもしれない。
これ見りゃ速いでしょ?はキツすぎる。
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