本来は自分の弱さと戦うもの

先の文章に、自分の弱さ…云々と書いた。

人間は互いに付き合うと、他所の誰かを見て「あの人あれじゃない?」などと、批評がましいことを、する場合がある。

批評もそうだが、格付のようなことを、窓の外から見える誰かを見て、アレコレ言いだす。

これは、たぶん野生の名残りで、自分にや役立ったり、生産的かどうかを吟味したりするものだろう。

本能的に役立つなら近づいたり、取り入れたりし、格付け…自分よりも能力に問題があったり、技術の点で下なら、ぞんざいに扱うというのも、動物から来ているように思えてならない。

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動物や野生の方がましだ、というなら人間の見ていない部分の、野生や自然界は苛酷な部分を込みで話していない。

野生的な残酷な振る舞いを止めて、生き延びましょうというのが文化や文明な気がする。

人間の持つ本能や残酷さは結構、隙間を見て入り込むようで、言葉巧みに変なことを言ったり、皮肉を込めた態度で表現したりと、根源の部分では本能的なものが未だに残り、克服されていないのではないか。

タテマエでは差別はいけないという。

しかし、ホンネ(実際)は見た目で判断したり、よく分からない場合などは、遠ざけたりと、自分には余裕が無いから~と言いながらも、結構、酷いことをする場合がある。

少し前にヘイトとか、新大久保で差別云々な話もあった。

冷戦ではないが、目に見えてわかる悪というのがあれば、周りは落ち着くことがある。

あれがいけないと、ハッキリいえるのだから。

誰かより秀でたり、優れていたいというのは、承認欲求でもあるが、サル山のサルの部分から来ているのではないか?

ボノボなどは、不安や攻撃性を緩和するとき親密に接するというが、人間は果たしてボノボに近いだろうか?

何かに秀でたりすれば、何かに強く言えたり、何かを指導できたりする事に直結し、立場を良くする。

言葉を使ったマウント、優位に立つことで、本能に近い支配欲を満たしているのだろう。

しかし、ここはとりあえず文化圏である。

ときどき、野生の動物が居たりイエネコが居たりするだろうが、文化圏の主が野生になっては、どこかおかしくなる。

「人間も動物である」という声が、酷く詭弁に聞こえるのはなぜだろうか?

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