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物語は引き出しの中から

子どもの頃は、物語の本が好きだった。
ノンフィクションとか趣味・実用書みたいなのよりも、想像の世界が描かれている物語を読む方がずっとワクワクするし、楽しいと思っていたからだ。最近は、小説より、専門書や実用書を手にする方が多くなった。
生物学を中心としたサイエンスや、社会病理・ジャーナリズムの本を借りたりする。

子どもの頃は本に架空の世界のエンタメ性を求めていて、今は現実の中にエンタメを求めている、といったところだろうか。

というのも、本を読むことに対して“楽しい” ”おもしろい”を求めているところは、今も昔も変わっていない。

中学生くらいまで、定期的に図書館へ行っては、読み終わった本を返してまた新しい本を借りる、というルーティンを続けていた。
その頃は物語や文体に対する好き嫌いもあまりなく、面白そうと思ったものを手にとって、そのまま読み進めることができた。

小学校高学年から中学生の頃に、イラストが上手な友だちの影響でイラストを描き始め、自分の頭の中の空想を絵で表すことを覚えた。
その頃から、インプットすることよりもアウトプットすることに時間を費やすようになったような気がする。

アウトプットする趣味を覚えてからは、空想していて楽しい世界はどんなものだろう、と考える時間が格段に増えた。
それは大人になった今でもそうだ。

物語を読むことが、すでにできあがった世界を味わうことだとしたら、今の私の読書は、世界を考えるための素材を集めているような感覚だ。
本を読むだけでは半分もわからないような難しいテーマだったとしても、自分なりに考えて、ある程度の結論に落とし込む作業が楽しい。
やはりとっかかりとして、多少の興味があるものでないと難しいが。

そうして集めた素材はある程度、自分の頭の引き出しに入れておいて、何かの折にそういえば…と思い出したり、こっちの引き出しにあるもので何か作れないか…ということを急に考え始めたりする。

「引き出しを増やす」とはよく言われるものだが、ただ単純に見聞きするだけで簡単に引き出しが増えれば苦労はしない。

引き出しを増やすのにも何種類かの労力が要る、と常々思っている。
どうすれば引き出しが増えるのか、いまいちわかっていないけれど、大事かもなあと思うのは、記憶力と分析力と応用力だ。

記憶力

これは純粋に、見たものを覚えておける力がないと忘れてしまって、せっかくインプットするのに使った時間が水の泡になるということだ。
書店で、この本の見出しの作り方珍しいな! いつか真似したい! と思っても、メモらないと大体店を出る頃にはすっかり忘れている。
「忘れるためにメモをするんだ」と、社畜のころにさんざん言われてきたが、こればかりは、一理ある、と納得してよく肝に命じている。
ただし、後からちゃんと記憶を喚び起こせないメモは意味がないので、きちんと思い出せるように書く。
ビジュアルがいいな、と思っても、どういうところがよかったのか、言葉で書いておけば解読も容易い。

分析力

何かをインプットする時に、コンテンツそのまんまの大きさを受け止めようとしても、どうしても細部を忘れがちだ。
しかし、そのコンテンツに含まれる要素を1個1個、ミクロに砕いていけば、どれかひとつは記憶の隅に残るだろうというところだ。
その時に、どこまで細かくできるか、どこまで細かくするのが適当なのか、という塩梅は非常にむつかしいなと思う。
たとえばみかんを剥くとして、1房ごとに分け白い筋も取ってしまう人もいれば、白い筋はそのままに2〜3房を一気に頬張る人もいる。(ちなみに私は後者だ。)
白い筋は栄養があるから取らなくていいという説もあるし、見た目や食感が嫌だからという理由できれいに取る人もいる…
どれを取ってどれを取らないのか、取捨選択は難しい。

応用力

細分化したコンテンツをカテゴリーに分けて、脳内の引き出しにしまう時、似たもの同士を近くに置いておくとなんとなくだけど、その「似たもの」についての見識が広がるような気がする。
そういった記憶や知識の紐付けをするか否か、というのが結構重要だと思っていて、何かに紐づけることで、思い出す頻度が増えて活用できる引き出しになることもあるし、初見のものでもなんとなくアレに似てるかも…という閃きが生じたりする。
ただ、それが正しいかどうか精査することをしなければ、「偏見」や「思い込み」という欠点になりかねないのが如何ともし難いところだ。


そんなこんなで、「インプットする」と一口に言っても、それをどう生かせるか先を見据えないとインプットされた情報がうまく使えないだろうなあと思う日々である。

とはいえ、すべてがすべて、インプットしたものを活用しなければならないというわけでもないし、そんな強迫観念めいた考えに囚われていたら、楽しむものも楽しめない。
本当はただ純粋に、今、この時間が楽しい!を、本や映画や演劇を見て、感じるだけで良いのだと思う。
これは、せっかくなら、受け止めた情報や感情を何かに活用したい、というただのもったいない精神だ。

それはそうとして、感想を事細かに書いておくと、後からそれを見返すだけで、当時の気持ちを思い出してまた楽しむことができる、というのは得だと思う。
何がどうなって、それを見てこう思った、を書いておくだけでもいい。
私の場合、観劇ログとしてのTumblrをまとめる際に、その日のツイートを遡るのだが、長々と感想を垂れ流している日の観劇は、そういえばそんなこともあったなあと割と細部まで思い出せるものだ。

土曜日の観劇の感想をろくに吐き出していないので、せっかくだから何かしらで書き留めておきたいなあという気持ちだけ逸って、うまく出力できない数日を過ごしてしまった次第である。

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