1円入れちゃった。

初詣。賽銭用の小銭を手に持っておこうと財布を覗く。813円あったので、財布から13円出した。

神の前に立ち「13円がありますように」と訳もなく考えて、手を叩く。

100円でおみくじを引いたら「末吉」で、「すべての行動は自分からしてはいけない。謙虚になりなさい」という内容のことが書かれていた。せっかく今年は能動的に行動していく1年にしていこうと思っていたのに、出鼻をくじかれた気分だった。

特に思い入れのない、ただの習慣でしかない初詣を終えて、スーパー銭湯に向かった。元旦から家族で出かけたのはむしろ、「でかい風呂に入りたい。ついでに初詣も行けばいい感じじゃん」という軽い感じだった。

車に乗り風が強く雪が吹きさらす景色を見ながら、「さっきのおみくじ嫌だったなぁ」と考えていると、ふとその意味について閃く。今年1年は自分から行動することを意識しようと思っていたけど、「周りを見ずに突き進むだけじゃ失敗するよ、謙虚になりな」ってことか、と納得した。

銭湯に着くと、父が100円が後から戻ってくる靴箱の前で「100円玉なかったー」とぼやいている。

こういう時、なぜか誇張してしまう。明確に「よく見られたい」「できると思われたい」なんて意識していない。さっき神社では「100円以上入れるのはちょっとやだな」としか思っていなかったのに。私の口からは「後で100円玉必要だと思って賽銭に入れなかったんだよね」と出てくる。

風呂はガラガラだ。人は少ないが真冬の露天風呂には雪が降っていて、顔に冷やした針を断続的に当てられているみたいで、それだけちょっと嫌だった。それ以外はとても心地よい。

十分に暖まって風呂から上がり、食堂で昼食も済ませて帰宅することにする。

100円が返ってくる靴箱の前で客のおばさんと店員のおばさんが腰をかがめて何かに一生懸命取り組んでいる。客のおばさんは、自分も腰をかがめて参加しているようだが、見ているだけだ。

おばさんたちを通り過ぎて、自分のロッカーに鍵を刺し、100円を受け取る。指から、財布の小銭ケースに100円玉が落ちようかというところで、おばさんたちがいた方向から声が聞こえた。

「1円入れちゃったんですね」

1円?1円入れちゃった・・・言葉の響きが何となく良くて、意味について考えてみる。

客のおばさんは、帰ろうとしたらロッカーが開かなくて困ってしまった。呼ばれた店員のおばさんは客のおばさんに見守られながら開けようと奮闘する。しばらくしてロッカーが開かなかった理由が判明した。

「あら、1円入れちゃってたんですね。ごめんなさ〜い」

軽快に謝罪する客のおばさん。いや、あんなに大きさも質感も違うのに1円入れちゃわないだろ。「1円入れちゃった」という響きのコミカルさも相まってだんだん面白くなってくる。

笑いを堪えながら靴を履いていると、父は貸していた100円を返してくる。手のひらに乗る100円の重みを感じながら、1円玉のことを考えた。これのどこを1円と間違えちゃうんだよ。

私は謙虚に顧みる。わざと半端な金額を賽銭箱に投げ入れて「13円がありますように」など、つまらない。そんなことをしている間に、おばさんはうっかり1円をロッカーに入れちゃうのだ。

1月1日1円記念日。とても心に残る元日だ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?