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新宿方丈記・20「曇り硝子の向こうに」

すっかり街が変わってしまい、渋谷が苦手になってから随分経つ。どうしても用事があるとき以外、極力近づかない。そんな私が前日からワクワクしながら、土曜だというのに午前中から起き出し、いそいそと「写真家 ソール・ライター展」を見るために渋谷まで出かけた。悔しいことに、私がソール・ライターという人を知ったのは、かなり最近のことである。ファッション写真で活躍した後、長いこと表に出ず、忘れられた存在として、自分のためだけに作品を撮っていた人らしい。なんでも20年くらい前に青山で見た(しかも写真展で初めて泣いた)「FAMILY OF MAN」にも出品を辞退したのだということがわかった。そんな彼がここ最近じわじわと注目され、メディアで何枚かの写真を目にした時、私は言葉にできない衝撃を受けた。もう本当に感覚でしかないのだが、私の求めていたのはこれだ、と強く思ったのだ。好きな写真家は何人もいるが、この人の写真はすべてにおいて、「大好き」以外の何物でもなかった。とにかくこの目で、実物を確かめたいと思った。

今回も脇目も振らず、目的地のBunkamuraに直行する。会場に入り、混んでいないことを幸いに、一枚一枚を心ゆくまでじっくりと眺めてゆく。ファッション誌に掲載された写真も、広告写真であるのに、すべて彼の作品であることから1ミリもブレていない。そこにまず驚いた。そしてカラー写真の美しい色彩と品の良さ。今までずっと、どことなくモノクロしか信じられなかった私の価値観は、見事にひっくり返る。カラーがこんなにも美しいなんて!イースト・ヴィレッジ界隈の写真はいうまでもない。街角の看板、信号、ペンキ、そして傘、傘、傘!これらを初めて現像して目にした助手たちが、感嘆の声をあげた姿が眼に浮かぶようだ。なんという素晴らしい色彩感覚なんだろう。もちろん色彩だけではなく、独特の構図、シャッターチャンス、そして目線。彼が持って生まれた感覚と、人生哲学が導き出した答えなんだろう。写真のタイトルがまた、いちいち気が利いている。写真と、タイトルを合わせたとき、一つの物語が生まれる。とても静謐な写真なのだけれど、油断しているとフレームアウトする手前で、さらっと何かが展開していたりするのだ。なんてこと!

展示は画家でもあった彼の絵や、写真にペインティングした作品、ヌードやスナップ写真まですべて見せてくれる。パートナーと二人で微笑むスナップ写真にはまた、作品とは違う格別の良さがあった。後ろ髪を引かれる思いで出口に向かう。間違いなく、私の世界一好きな写真家はソール・ライターである。もっと早く出会いたかったと思う反面、こんな素敵な作品に出会えないまま人生終わらなくてよかったとも強く思う。もし、十代の頃に彼の作品に出会っていたら、私は間違いなく写真の道を目指しただろう。文章を書こうだなんて思わなかったろう(人形は作っていたと思うけど)。会場を後にして、続けて映画「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」を見に行った。字幕は柴田元幸さん(!)で、時代が変わっても、相変わらず街の風景を切り取るソール・ライターの姿がそこにあった。「幸せの秘訣は、何も起こらないことだ。」という彼の言葉は、ジタバタもがいている私の心に深く突き刺さる。だから彼の作品は揺るぎないのだ。曇りガラスの向こうのイースト・ヴィレッジの風景が、その意味を教えてくれた。
















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