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市井いけばなの底力

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「京都 日常花 vol.2」青幻舎

表紙の写真が好みで手に取った生け花の本。市井と銘打っても泣く子も黙る京都である。さあ、深夜の紅茶を飲みながら浸りきろう。

田舎者なので、使ってい花材にほぼ見覚えがある。ぼんやりとページを繰っていくと、あー、こんなふうに自分もいけたことがあるなぁ。随分と丈の長いものを選んだなぁ、と素直に発想が流れていく。

無意識のうちにじぶんならここをどうしよう、などと考えている。

ところがどっこい、骨董や時代籠にいけてしまううえに出てくる掛け軸や店舗のしつらえが逆立ちしても関東の戸建て兎小屋には再現不可なのである。

うん、つまり、書籍として成り立っている。

ここに行けばさりげない花を、全くさりげなくはない存在価値の骨董と眺められるかもしれない。

さりとて撮影のその日のその花が一期一会。

写真集の良さは、花というものはそのときの花であり、そこをフォーカスして保存するもの。

そして日々の生花は毎年毎年花材を前に変わりゆく自分と好みとを楽しむものなのかもしれない。

親が花道の先生なので習うこともなくみていた自分としては、何かを言えることも理解しているというものもなく、壁掛けの籠を花器として使おうと思い立ち、あらたな造形の美しさに火を灯す一端をになう写真集であることを記そう。少なくとも私のような社畜にとってそうなのだから、余裕のある方であればまたゆたかなインスピレーションが湧くだろう。

ちなみにこちらは
「京都 日常花 市井のいけばな十二ヶ月」がすでに発売されていて、そちらも読んでみたいと思う。

骨董に言及するならば本書をご覧になる前に一つ具体例を。

私がキューン、としたのは春越し(はるおこし)を尾形乾山(尾形光琳の弟です。かんざん、とよまないでね、けんざんです)の銹絵染付掻落絵替汁次(さびえそめつけかきおとしえがわりしるつぎ)に生けていたもの。本書の中では懐石料理屋さんにて、撮影されたようだ。なかなかおどけている。当時は大量生産されたのだろうか。蕎麦汁などを注ぐ器にひょい、と今生えてきたかのような白の花びら、淡い緑のがく片と総苞葉がほの暗い空間で茶色から黒褐色(鉄絵ともいう)銹絵に映えていて一輪ゆえの眩しさ、という印象だ。

せっかくのステイホームだ。心に花を咲かせて遊ぶ時間としてもよいだろう。


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