雑踏が颯爽と葛藤に変わる

朝の満員電車の中。
DAOKO×岡本靖幸の曲を聴きながらぼーっとしている。相当身体は疲れているらしく脳だけが元気だから本当に途方に暮れる。
分刻みのスケジュールを自分で実行しているところに苛立ちを覚えるし、コンビニでなんて絶対ご飯は買わないと思っていたのにセブンイレブンの列に並んでしまっている自分がいて怖い。電車のアナウンスに怯え地下鉄の大きすぎる地響きに震えながらの通勤なのだからこれだけで私は本日の体力の60パーセントを使ってしまうわけです。
いくらごきげんなナンバーをiPhoneから流したって人に接触するだけで気が散る私にとっては何の意味もないのかもしれない。と、ここまで愚痴を書いたわけだけどこの雑踏にまみれている意味ってなんかあるのかなと考えた時に本当に何もなくて。ひとついいことがあったとしたなら最寄駅から一緒に乗ってくるかわいい男の子を見つけたことくらい。特にその子に何かするとかは当然ないと断っておくけれど。

以上2日前に書いた文章なんですが、こういうざわざわとした記憶というのは案外すぐ忘れ去られるもので。記憶、はすぐに忘れ去られてしまうけど感情はなぜか残ることがしばしばあるなあと最近気付きました。

観光客が多い京都、春、綺麗に咲く桜、雲の一切ない青空、気持ちいい空気、活気のある街並み、とかいう記憶は体験しているときは楽しいし、そういう条件が揃っているからこそなぜか心がわくわくして楽しくなってしまう。だけど、この記憶ってやつはすぐになくなってしまうし「あの時、楽しかったなあ…」という感情だけが心なしか残るような気がします。そしてまた季節は巡り、同じく春が来た時に思い出すのです。「そういえば春ってこんなに楽しかったんだ、そういえばあの時…」と。

いつもいつも儚さと一緒に生きているのだと思います。だけどその事実にいつも気付かずに、もしくは気付かないように生きている私たちは少し虚しくそして人間らしくもある気がします。

記憶はすぐに忘れてしまう、だけど感情はどこか記憶のはるか底にあって忘れられないものなのかもしれません。苛立ちも不安も楽しさも嬉しさも全部忘れられないのです。
だからこそ日々笑っていたいし、ちゃんと泣く時は泣いて、怒る時は怒るし、喜ぶ時は思いっきり喜びたい。
それは葛藤しながらも自分としっかり向き合いながら生きる、いうことなんだと思います。
以上です。

#エッセイ #日常 #生活 #葛藤 #cakesコンテスト

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