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曽野綾子『生活のただ中の神』「私たちは例外なく小さな者」

現代社会では、貧しい人を差別してはいけない、ということは言われるが、金持ちを差別してはいけない、ということは誰も言わない。

イエスは貧しい人を深く愛されたが、しかし富んだ人を避けることも決してなさらなかった。
「マタイによる福音書」(27・57)にはイエスが弟子としてアリマタヤ出身の裕福なヨセフという人を、弟子として受け入れたいたことが記されている。

イエスの弟子になるには

お金も多く持っているのかどうかよりも

神のことを信頼しているかどうかが

問題となったのだろう。

イエスがよくないこととされていたのは、


富そのものや富を所有することではなく、


富を優先して、

神の恵みを見失うことであった。

神の恵みを得るためにも

お金を得るにも使うにも

誠実な正しさが必要なのだ。

健康が病気よりいい、というのはごく普通の判断である。

そして誰もが自他ともに、病気であることがいいとは思わない。

ただ

時に

人は、病気の故に深い思想を持ち、

芸術の道を見つけることもある。

健康でない時の方が

人間は深く考えることができ

芸術の域にも達するということは

事実である。

同じように、

全ての人が貧困から逃れて物質的な安定を得ることが社会の目標である。

その日暮らしの貧困に喘ぐより、いささかの蓄えを持って安定した暮らしをした方がいい。

世界の政治も、国民にそのような状態を与えることを目標にしている。

社会の目標は、すべての人が十分に生活することができるということだ。

しかし

現世で頼りになるような、

才能も、金も、健康も、家柄も、助けてくれる人も、何ものも持たない、

従って

貧しさの極限にいると言われる人たち

=「アナウィム」=

こそ「天の国はその人たちのものである」

と、神は「マタイによる福音書」(5・3)の中で言われたのである。

そのような状況の時にのみ

神に心から祈ることができるということだろうか。

人間は弱いから、つい金を誇り、金に頼り、金で差別する。

しかし神は金があることにも、ないことにも、本来は全く寛大であることを忘れてはならない。

差別も好きだが、逆差別も好きなのは人間なのである。

差別も妬みもいけないということだ。

しかし、

それにしても、

神はなんと豊かにあらゆる場に対して

基本的な答えを用意してくださっているものだろう。

しかし

私たちは神の前では

例外なく

小さい者に過ぎないというのだ。


人間の命には

限りがあり

現世で得た物質的なものは

何ものも

死後の世界へ持っていくことはできないのだから。


持っていくことができるのは

現世で積んだであろう

徳しかない。


徳だけなのだ。


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