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サマセット・モーム『サミング・アップ』多くの旅行した結果の精神の自立

人間は全く同じ人間などいない、
どの人も独自である、というようなことをよく本で読む。
それはある程度は真実だが、誇張されやすい真実だ。
実際には大同小異である。

比較的少ない数のタイプに分けられる。
同じ環境は人間を同じようなタイプを作る。
ある特徴が分かれば、他の特徴は推察可能である。

古生物学者のように骨一本から動物全体を復元できる。
古代ギリシャのテオプラストス(アリストテレスの弟子で『人さまざま』の著者)以来文学で流行った「性格」とか十七世紀の「気質」といった考え方は、人間がいくつかのそれとわかるタイプに分かれていることを示している。
実際このことがリアリズムの基盤であり、
リアリズムの長所は読者がこの主人公なら知っていると認識できることである。
ロマン主義の方法は例外的なものに関心を寄せるが、
リアリズムは普通のものに関心を寄せる。

人間はタイプに分けることができる。

そのタイプを日常で知っていることから

私たちは物語を読む時に実感を持って読むことができるというのだ。

原始的な生活や人間に異質の環境の南海や東洋で、
いくぶん変則的な暮らしを余儀なくされているイギリス人の場合、
彼らの平凡な性格が強調されて、
異国に暮らすイギリス人という共通の性格を持つようになっている。

こういう人達の中には時として風変わりな人も存在するが、
その場合は、
本国での抑制がないために、
文明社会ではまず不可能な程度にまで異常さを自由に発揮している。

こうなると、
リアリズムではほとんど描けなくなる。

私は自分の受容力が限界まで来て、
人に出会っても首尾一貫した物語を
想像の中で作れないと気付くまで
現地に留まった。

限界まで来れば、
イギリスに戻り、
印象を整理し、
受容力が回復するまで休息を取った。

長い旅行を確か七回繰り返した後だったと思うが、
人間はある程度同じだと思った。

前にあったのと同じタイプにますます多く会うようになった。

もはや私の関心は刺激されなくなった。

遠い旅をして見つけに行った人々を熱をこめて自分なりの見方で見る能力(というのは、人々に特異性を発見したとしても、それは私の人間観から解釈したものであったからだ)が尽きたのだと思った。

これではもう旅行をしても無意味だと思った。
旅行中に私は熱病に罹って二度死にかかったり、溺れかかったり、山賊に発砲されたりした。

普通の生活に戻れるのは嬉しかった。

異国での生活を余儀なくされているイギリス人は

ほとんどの場合には

平凡さが強調されているイギリス人として生活していた。

しかし、

文化の抑制がなくなって

本来持っていた異常さを発揮しているイギリス人がいたことで

自分の中が混乱するたびに

イギリス本国に戻って整理し休養を取らなければならなかった。

旅行から帰国するたびに、私は少し違った人間になっていた。
私は若い頃にたくさん本を読んだが、
自分のためになると思ったからではなく、
好奇心と向上心からだった。

旅行も
面白いからと、
作家としての資料収集に役立てるためだった。

旅行でも経験が自分に影響を及ぼすとは少しも考えたことがなかった。
実際、新しい経験が自分の性格を形作ったのに気付いたのは、
ずっと後になってからだった。

旅先で珍しい人と接しているうちに、
「滑らかさ」を失い、「ごつごつした角」を取り戻した。
(文壇で平穏無事な生活をしている間に、袋の中の石ころのように擦れて角がなめらかになっていたのだ)

ようやく本来の自分になったのだ。

旅行はもう私には無用だと判断したので辞めた。
自分が新たに進歩できるとは思えなかった。
私は文明人特有の傲慢さを捨て去り、
完全な受容の気分になった。

誰にも、その人が与えうる以上のものを求めなかった。

精神の自立を得たのだ。

私は、他人の思惑を気にせず、
我が道をまっしぐらに進むことを学んだ。

自分のために自由を求め、
他人に対しても進んで自由を与えるつもりだった。

誰かが自分以外の人に不埒なことをしたとき、
笑って肩をすくめるのは容易である。
しかし、自分が被害者であるときは難しい。

しかし、不可能ではないと思うようになった。

人間について達した結論を、
シナ海の船中で出会った人物に言わせた。
「わたしが人間をどう考えるか、
簡潔に言ってみますかな。
そう、心はまっとうなんだが、
頭となると完全に役立たずですな」

多くの旅行先で出会った珍しい人も

人のタイプの一つとして認識できるようになると

混乱することなく

タイプ分けができることで人間が理解できるようになった。


そうなると

人間の新しいタイプを見つけ出すことができなくなった。

それで旅行する理由がなくなった。


旅行でのでのさまざまな人との出会いから

人間には

自分のようなタイプが存在することは

当然だということを確信した。

そして

本来の自分を取り戻して

自信をもって

自分自身として生きることができるようになり

精神の自立を得たというのだ。


そうなると

他人に対して

過度の期待をすることなく


不埒なことをされたとしても

動揺することなく

笑い飛ばすことも

不可能ではないと感じるようになった。

まさしく

精神の自立。

・・・

人間というのは

心という良心の軸を持つ上での判断力には

確信があるけれども

脳においてさまざまな情報を処理することは

ときに無責任な人の多くの言動に

振り回されるから

役立たずということなのだろうか。


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