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サマセット・モーム『サミング・アップ』作家たるもの

作家たるもの、自分が書いたものが自分以外の者にとっても価値があるかどうか、時には自問すべきである。
この疑問は、少なくともそこに住む我々にとって歴史上未だかつてないほど不安と惨めさの状態にあるように感じられる昨今なので、差し迫ったものと言えるだろう。
私個人にとっては、とりわけ意味のある疑問と言わねばならない。
というのも、
私は作家だけでありたいと思ったことが一度もないからだ。
私は人生を完全に生きたいと望んだ。
どれほど僅かでも、世界をよくするために役割を果たすのが自分の務めだということに気付くと、落ち着かなかった。
自分の生来の好みとしては、あらゆる種類の公の活動から離れていたいのだ。
これまでにもその時々の問題を考える委員会に出たことがある。
非常に気が重かった。
一生の全てを用いても、うまい文章が書けるようになれないと思ったから、時間が惜しくて執筆以外の活動には時間を使いたくなかった。
執筆以外のことも大事だと心底から納得したことは一度もない。
そうは言うものの、世界では何百万人もの人が飢餓線上にあり、地球の広い部分で自由が死につつあるか既に死んでいる状態にある。
恐ろしい戦争が数年おきに繰り返され、その間には無数の人にとって幸福は手の届かないところにあるのだ。
人生に価値の見出せぬ人がいるし、また何世紀もの間、苦難に耐えることを可能にしていた未来への希望がはかない夢に終わりそうだと知って、茫然となった人もいる。
こういう厳しい世界を思うと、芝居や物語や小説を書くのは、いかにも無益ではないかを自問せざるを得ない。
私の考え得る唯一の答えは、作家の中には書く以外のことは何もできないように生まれついた者もいる、というものだ。
書きたいから書くのではなく、書かざるを得ないから書く。
世の中にはもっと差し迫ってすべきことがあるのかもしれないが、魂を創造の重荷から解放せねばならないのだ。
たとえローマが燃えていても書いているのだ。
世界の人は、消火のためにバケツ一杯の水も運ばないからと軽蔑するだろうが、仕方がない。
バケツの運び方を知らないのだから。
それに、火事を見ること心が躍り、様々な表現で頭が一杯になるのだ。

時代が戦争の状態である時

作家としての価値を自問することとなる気持ちは理解できる。

世界を良くするための役割を果たすことが自分の務めだというけれども

公の委員会に出席することではなく

おそらく

小説を書くことで

世界に貢献したいと考えていたのではないかと思う。


苦しい時期において

小説を読むことで現実から離れて

救われる人も多くいたと思う。


だからこそ

委員会に出席することは時間が惜しく感じられたのではないか。

そして

うまい文章を書きたいからこそ

文章を書く時間を十分に確保したいと願ったのだろう。

・・・

モームは書きたいから書くのではなく、

書かざるを得ないから書くという。


書くことによって

自分の魂を押しつぶしている重荷から

解放するというのだ。


書くということは

書いている自分と正面から向き合い

内的な自分と対話することだと思う。

だから

たとえ

ローマが燃えていてもバケツの水を運ぶことなく書き続ける。

さらには

その燃え盛る火を見ることで

想像の世界がたちまち広がり

心が高揚するというのだ。


作家とは

それほどにまで

書くことに心酔する人のことを指して言うのだろう。


なにかをやらざるを得ないものがある人は

本人は苦しいことも多いだろうけれども

それは本当に幸せなことだと思う。

モームは

幸せな人だったのだ。


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