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ブルース・チャトウィン『ソングライン』1970年、アフガニスタン、ヌリスタンにて

ヌリスタンのその村々は、目まいがするような急傾斜の山腹になるため、ヒマラヤスギのはしごが通路の役目を担っている。
村人たちは金色の髪と青い瞳をしていて、真鍮で作った戦闘用の斧を持ち歩いている。
パンケーキのような帽子をかぶり、膝のところで交差するガーターをつけ、まぶたにコール墨を塗っている。
アレクサンドロス大王は彼らを、滅びて久しいギリシア人の一部族と見まちがえ、ドイツ人をアーリア人の一部族と見まちがえたという。

ヌリスタンの村を移動する際に雇ったポーターたちは常に戦闘ができるように真鍮製の斧を持っていた。金色の髪と青い瞳を持つまるでヨーロッパの人のような彼らであるが、まぶたにはコール墨を塗り物々しい様子であることが分かる。

生き延びることにおいて厳しい環境であることが理解できる。

それは自然においても、人間同士においてもという意味だ。

雇った荷運び人(ポーター)は卑屈な連中で、足が痛くてもう一歩も歩けないと文句を言いつづけ、僕たちのブーツを妬ましげに見た。
四時になると、彼らは日の当たらない廃屋のそばで野営の準備をさせようとしたが、僕たちは有無を言わせず谷を登った。
一時間後、クルミ林に囲まれた村に着いた。
家々の屋根は、アンズを日干しするせいでオレンジ色に染まっていた。
淡いピンクの服を着た少女たちが花畑で遊んでいた。

一見豊かで平和に見えるその村であった。

クルミの林

アンズの日干し

家々のオレンジの染まった屋根

淡いピンクの服の少女たちが花畑で遊んでいる様子

何もかも穏やかであるように見えた。

村長は朗らかな笑顔で僕たちを迎えた。
次いで、顎髭を生やし、ぶどうの葉とシモツケソウの冠を頭に飾った、酒神の従者サテュロスを思わせるような若者がやってきて、革袋に入った辛口の白ワインをふるまってくれた。

村長は朗らかに出迎え、若者は貴重な白ワインをごちそうしてくれた。

「この村で」僕はポーターに言った。
「泊まることにしよう」
「ここでは泊まらない」彼は言った。
彼はペシャーワルの市場で英語を覚えたのだ。

「泊まろう」僕は言った。
「ここのやつらはオオカミだ」彼は言った。
「オオカミ?」
「オオカミだ」
「じゃあ、あっちの村の人たちは?」僕は一マイルほど上流にある、しょぼくれた別の村を指さした。
「人だ」彼は言った。
「じゃあ、あの向こうの村は?オオカミかな?」
「オオカミだ」彼はうなずいた。

「何をばかなことを言ってるんだ!」
「ばかなことじゃないよ、旦那」彼は言った。
「本物の人間と、オオカミが化けている人間がいるんだ」

けれども

ポーターはこの村では泊まらない言う。

この村の人は人ではなくオオカミだと言う。

他に村についても聞いてみると

人の村と

オオカミの村があると言う。

ばかなことではなく本当にそうであるという。

・・・

結局ブルース・チャトウィンたちは

そのオオカミの村には泊まることなく

人の村に泊まっのだろう。

・・・

人間には人とオオカミがあるという。


人は

危害を与えない人であると認識できて初めて

他の人に対しても

危害を加えることがなくなるのだろう。


しかし

オオカミだという人たちは

自分に危害を加えないとは判断せずに

攻撃したり利用したりするのであろう。


それが豊かな村ではオオカミとなり

しょぼくれた村では人であるという。

しかし

この法則は関係がないかもしれない。


指導者となるものの考え方やそれまでの歴史や文化から

人となるのかオオカミとなるのかを選択してきたのかもしれない。

酷い目にあったことがあるから

オオカミとならざるを得ないのかもしれない。

生き延びるためには用心深くなければならない。


正確な情報があり

確かな経験がある時でなければ

人は人となれないのかもしれない。


オオカミにならなければならない状況なのか。

オオカミとなったほうが利益となる状況なのか。


文化の進んだ国ですら

未だにオオカミになり脅し続けているではないか。


いつになったら人間は学ぶことができるのだろうか。

いつになったら人は人になれるのだろうか。

どうか

人として生きてゆく道であってほしい。


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