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曽野綾子『魂の自由人』「どちらも少々」

世間で犯罪を犯す人の動機などというものを、私たちはほとんど直接聞いたことがない。
多くは新聞などが報道したものを信じているだけなのである。
それが真実かどうかか誰も保証してくれないし、仮に真実であったところで、自分の心を簡潔に言い表す技術を持っている人はそう多くはいないのだろうから、告白は一種の形式の則ったものとなっているはずである。

犯罪の本当の理由は、本人すら十分に認識できているとも限らない。

どこかに誤解が生じている場合が多いのではないかと思う。

誰かに話を聞いてもらい、背中をさすってもらう機会があればよかったのにと思う。

その中でしばしば出てくるのは、他人はその人に向かって言った何気ない言葉にその人が思いもかけないほど深く傷つく場合があるということである。

物事に対して歪んでみるようになると、すべてを限りなく歪み取ることができてしまう。

その原因は、自分自身に対する自信のなさから、自分の中に自分を否定する自分しかいなくなっているからだと思う。

誰しも自分の弱点を言われるといい気持ちではない。
しかしまた、自分に弱点がない人もないのである。
それをどうしたら克服して、自分には弱点も少々、得意な点も少々あるというふうに自然な見方をして、自分の心を解き放つことができるか、・・・

自分では弱点だと思っていたことが、別の視点から見ると

そうではなくなり、逆に利点として見えてくることも多くある。

冷静に自分の弱点として受け入れるのか

または

その弱点を生かすと考えていくのかで

捉え方も違ってくる。


もう一つの考え方は

常日頃から人間の世界には完全なものはいない、という現実を知ることである。
・・・
ここには、自分がすべての点において人より勝っていなければならない、などという不気味な姿勢はない。

すべてにおいて完全でいる人はいないし、そうあるべきだとも考えなくてもいいということだ。

自分は完全であると思った時点で

もはや

人は完全でなくなるのだ。

自分が或る小さな社会にとって必要な人間だという自信があれば、他のことで少しくらい嘲われても馬鹿にされても、人はあまり気にしなくなる。
つまり、人は一つだけ自分が他人の追従を許さない専門分野を持てばいいのだ。
それも大したことでなくていい。
サハラにおける私のように、やっつけ料理が上手いという程度の、ちょっとした得意技でいいのである。

曽野綾子は、五十を過ぎた頃に友人たちとサハラ砂漠を2台の国産車で約40日、8000キロに及ぶ縦断の旅をしている。

凄いことをしている。

・・・

なんでもいいのだ。

人と比べることもなくてもいい。

秀ででいなくてもいい。

自分が認めることだけでいい。

これが得意だとか、これが好きなのだというものがあればいいのだ。

そして

好きであれば

それは必ず得意なものとなる。

その時初めて人間は、頭が悪かったり、貧乏だったり、不器量だったり、学歴がよくなかったり、病気持ちだったりする僻みの種となるものから解放される。

何事も人とは比べることは基本的にはできない。

多くの条件がすべて違うからだ。

人生で使う道具は一つあればいいや、と笑って済ます余裕ができるのである。
その時私たちは、確実にいささかの魂の自由も同時に手に入れるような気がしてならない。

自分を自分で

笑い飛ばすことができるようになって初めて

魂の自由を得ることができると思う。


何事にも深刻にならずに

深く傷つくこともなく

どうにか

楽しく

生きていくことができる。


それが

魂の自由人。

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