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エリザベス・キューブラー・ロス『死、それは成長の最終段階』「結び」(死は意識を仕切るカーテン)

以上のように考えてくると、
死とは、
私たちが意識している存在と、
意識から隠されている存在を
仕切るカーテンだと言えるかもしれない。

そのカーテンを開けるまで、
私たちは
意識的に裏に隠れた存在に気づくことはない。

意識している存在の有限性を理解するために、
象徴的にカーテンを開け、
一日一日を精一杯生きることを学ぶか、
肉体的な存在が終わるときに、
カーテンを開けざるをえなくなるかは、
大きな問題ではない。

自分がなぜここにいるのか、
死んだらどうなるのか、
を十分理解していようといまいと、

重要なのは、
成長こそ
人生の目的だと
認識することである。

自分自身を見つめ、
心の平和と理解と強さの源である内面の自己を見つけて
それを頼みにすること、

愛と受容と忍耐強い導きと希望を持って
人々に手を差し出し、
自分たちがこうなれるかもしれないと思う姿を目指して、
みんなで手を取り合って進んでゆくこと、

それが重要なのである。

死は

意識していることと

意識できていないこと

を仕切るカーテンのようなものであるという。


そのカーテンは

開けようと思えば

自分から開けることができるものだ。


カーテンを開けて

死について意識することで

一日一日を意味あるものにしようと生きる。


死が近づいてきたときに

カーテンを開け

存在の有限性を意識できるようになる。


しかし


ここで重要なのは

自分の死や

自分の存在の有限性

を意識できるということではないという。


どちらにせよ、死はやがて訪れる。


死を認識していなくとも

自分自身を成長させることはできるという。


自分自身の心の成長と

人間として理想的な姿を目指して生きる

ということによって

内的に成長した自分自身を頼みにして

愛のある行動ができるようになるというのだ。


仏陀の教えと似ている。


悟った際には

その悟りに必要であったものは

そこから必要なくなるというもの。


そして

私たちみんなが手を取り合って

お互いに愛しみ合い

生きてゆくことができるようになれば

それが

幸せとなる。


死を意識するからではなく

自己の成長と

すべての人間の幸福(生きとし生けるものの幸福)が目的となる時には


もはや

死は関係なくなる。


死を超越した考え方となる。

死ぬから頑張るのではなくなるのだ。


そして

私はあなたとなり

あなたは私となり

すべてが一体となる。


それは

自己というものが広がっていき

自己を超越した姿となる。


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