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曽野綾子『魂の自由人』「舫い(もやい)綱(づな)によって」

自由というと全く「風のように」自由なことを言うのだ、と思っている人がいる。
無限に時間があって、無限の金があり、無限の行動を許されて、どんなに好き勝手な人間関係も許されている。
そんな境地こそ自由人だと思っているのだ。

何でもかんでも自分の自由にすることができることが、果たして本当の自由なのかということだ。

いつから日本人は、自分の身に起きたすべてのことを人の責任にするようになったのだろう。
最終的には、自分の進路を決定するのは、その人である。
今の日本では納税と就学くらいしか強制されているものはない。
就学に関しても、義務教育を拒否して、自分の子どもを全く日本政府の思惑の届かないところで教育した人を私は数人知っている。

自分の言動の責任はいつも自分自身にある。

自分の言動を決定しているのは自分自身だからだ。

法に触れない限り、私たちは何でもできるのだ。
だからその結果は、
事故や犯罪の巻き込まれるか、
国家の主催の範囲内での政治的制度の怠りや放置によって起きる被害、
を受けたのではない限り、
その人の責任だと言わざるを得ない。
選択の自由は結果の責任を生む。
選択において自由にできることを要求し、結果だけは他者が責任を取れ、という理屈はどこにもない。
むしろ、私たちは国家、地域社会、信仰、自分の哲学などに、自ら納得してしっかりと縛られたときに、却って舫い綱の長さだけ本当の自由を得るのである。
錨のない船は流されるだけで、決して自分の意志を示す方向に自由に行ける、ということにはならない。
人間は万能ではないから、大きく流されないように、自分に自ら錨(規範)をつけ、その上で細部に途方もなく自由な選択を許されることを目論むのである。

徳を持って生きることがほんとうは必要なのだ。

それが一番自分自身を自由にし自分を解放するのものだからだ。

何が徳となるのか。

自分中心に考えると

多くの人のそれぞれの都合の良い徳が出来上がってしまう。

だから

現在の社会では多くの規範に従い、共通のルールの中で生きてゆくしかないのだ。

自分が乗る船から

規範という錨を下ろして

それに繋がる舫い綱で

社会の様々な波に流されないようにするのだ。

その舫い綱を短くするのか、長くするのかは自分次第なのだ。

短いと安定はするだろうが動ける範囲は狭くなる。

長いと不安定だろうけれども自由に動ける範囲は広くなる。

舫い綱の長さを自分で調節することはできると思う。

徳などというものは、自己の精神を不必要に縛るものだと思っている人がいる。

・・・自制心を持つことは最低の規範である。

それが船の姿勢を保つ舫い綱と同様、人が徳によって自分の姿勢を立てる方法である。

最低の人間の徳に縛られなけらば、人間の自由も開放もあり得ないというのはおもしろいことだ。

規範がなければ

世の中は混乱が生じて自由というどころではなくなる。


国家の役割は

憲法や法律の

多くの規範により文化的な生活を保障することだ。


規範は

人間を縛るものではなく

人々の自由と権利を守るものだ。


規範を守り

さらに

徳を身につけることで

人間は

魂の自由人となることができる。

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