曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「今から妻のある人はない人のように」
『まだ当分生きる』は無限に生きると思っていることと同じ
2006年の足の骨折以来、私は一時的に身障者になって、体の不自由とはいかなることかを実感した。
負け惜しみではなく、これは私にとって、貴重な贈り物であった。
多く苦難にあってもそこから何かを学ぶことができる。
私が不潔に鈍感で、肉体的にも病原菌的にも強いということは、確かに恵まれたことであったが、今まで内臓の病気をしたことがないという現実は一種の偏った生活だったという言い方もできる。
病気がいいというのではないが、人間の一生は、病気と健康が抱き合わせになっていて自然なのである。
健康がいいのは当然だが、寝たこともない、というほど健康なのも、偏っていると言わなければならない。
一面では、人間の苦しみと悲しみに対して鈍感になっていたはずだ。
その弱点を怪我は一挙に取り返した。
人間は経験したことでしか実感することができない。
想像力にも限界があるのだ。
多くの経験をすることが人間を深くふくよかに育て上げていく。
人間は、死に至る病を宣告されない限り、「まだ当分」生きるような気がしている。
「まだ当分」ということは、ほとんど無限に生が続くことで、死は認識できていないということなのだ。
当分というよく分からない時間設定は
よく分からないということで
理解できず
無限に続くものと錯覚してしまうのだ。
しかし、この世で私たちが手にしている物質も状態も、すべて仮初のものであることは間違いない。
津波や地滑りに遭った人たちは、一時間前まで住んでいた家が突如として消え失せ、それだけでなく、そこに家族として当然いるべき人たちまで失われたことを知るのである。
つまりその人が信じていた歴史も生活も瓦解したと言うべきか、雲散霧消するのである。
そんな過酷な運命もあるということだ。
この災害だらけの日本においてはいつどうなるのかは誰にも分からないし、いつでも災害の当事者になる可能性があるということだ。
生も死も、深くは信じない、という態度を私はとるようになった。
仮に医師から予後がよくない病気だと言われても、生きているうちは死んでいないのだ。
言葉を変えて言えば、死ぬまで誰もが生きているのである。
とすれば、今日は生に所属する日であって、生きながら死んでいる日ではないのである。
医師の診断がすべてではないし、
どうなるのかは
分からない。
分かっていることは
今現在生きているということだ。
すべてを仮初のものと思うこと
四十近くなってから、私は聖書の勉強を始め、やがて聖書の中で、所管として扱われている聖パウロの手紙にぶつかった。
私も聖書の勉強を約7年間した。
私もパウロの聖書の文と生き方に強烈に惹かれたのだ。
パウロの生涯は過酷なものであった。
迫害され、長い旅の途中何度も命の危険にさらされ、投獄され、やがてローマで殉教したとも言われている。
パウロはキリスト教徒となると、既に現世の人ではないイエスの思想と行動に、徹底して殉じて生きたのである。
「わたしはこういいたい。定められた時は迫っています。
今からは、妻のある人はない人のように、
泣く人は泣かない人のように、
喜ぶ人は喜ばない人のように、
物を買う人は持たない人のように、
世の事にかかわっている人は、関わりのない人のようにするべきです。
この世の有様は過ぎ去るからです」
(コリントの信徒への手紙一7・29~31)
自分の置かれた状況、人間関係、行動、すべてを仮初のものと思えということなのだ。
ことに大切なのは、
ものごとに関わっていても、関わりのないように生きるべきだ、という忠告である。
一家団欒の幸福に酔ってもいいのだが、それも長く続くかどうかは分からない。
今現在直面している不幸からもう立ち上がれないと思ってうちひしがれている人も、
この幸福がずっと続くに違いないと信じている人も、
それらはすべて迷妄である。
パウロはどうして初代教会の信者たちにそのように懐疑的に生きる姿勢を教えたのだろうか。
なぜなら誰にとっても「定められた時は迫って」いるからだ。
つまり誰でもが年齢に関係なく、死とは常に隣り合わせにいるからなのだ。
死を目前にした時、初めて私たちはあるべき人間の姿に還る。
常に死が目の前にあると考えるならば
やりたくなくてしぶしぶしていることは
しないようになる。
そして
ほんとうにやりたいことを先延ばしにしていることは
今すぐにやらなければならないと思うようになる。
それを思うと、死の観念は人間の再起であり、覚醒なのである。
死の観念は
人間を覚醒させる。
凄い言葉。
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