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曽野綾子『生活のただ中の神』「神は見ておられる」

正義=ディカイオシュネーという言葉は、

現在の日本では

普通「少数民族が平等に扱われること」とか

「裁判で冤罪のないようにすること」だと思われているが、


本当の正義は

「神とその人との間の折り目正しい関係」を指すという。


横並びの世間の判断は問題ではないのである。


つまり世間が、それはいいことだと言っても、

神の眼から見て必ずしも正しいわけではない。


同様に世間から袋叩きに遭っても、

神がそれを望んでおられることもある。

周りが敵ばかりに見える時にも

自分の事を理解してくださる神が存在していると思うことで

救われるのだ。

神だけは味方でいてくれるという思いが

自分を助けてくれる。

もちろん

この折り目正しくあるべき神との関係は

常に歪んでしまいがちである。

それを私たちは必死に正し続けて一生を終わるわけである。

神に理解されるような自分でいることが必要だ。

そのためにも

自分が歪むことがないように

必死に正しく生きようとすることが大切となる。

神が隠れたところに在って、

隠れたものを見ておられる、ということほど、

人間にとって大きな慰めはないだろう。


自分に罪がなかった、ということが神に知られていればいい、というだけではない。

世間は知らなかったが、

自分はあの時あのような恐ろしいことをやりかけていた、

ということを知っていてくださるのも神なのだ。


しかし

私はその恐ろしい考えを実行しないで済んだ、

その喜びと感謝を捧げられるのも

また神だけなのである。

自分の正しさもやましさも卑怯なところも

すべて神はお見通しであるということだ。


酷い自分とならないで済んでいるということを

感謝する。

要するに、

神だけは理解されていることが必要なのだ。

あたかも世間の恋人たちが

お互いの心さえ繋がっていればそれで十分、

と思うようにである。

神にだけは理解されているということは

勇気を与えられる。

究極の境地。

その反面、

神がいない怖さはどんなものだろうと思う時がある。


世間を相手に

自分の正しい実像を主張して生き続けようとしたら疲れ果てる。


神なしに生きるのは、

私にとってはどうしても無理が出るのである。

曽野綾子さんが

世間に対して冷静に対処しているのは

理解を求めるのは

神だけであるからなのだ。


いつも神が見ておられる。

神には理解されている。


その神に対して

自分もいつも誠実でありたいと願うのだ。

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