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アッシュに擬態してー『BANANA FISH』ネタバレ含むー

0.『BANANA FISH』とは?

皆さんは『BANANA FISH』という作品をご存じだろうか?

『BANANA FISH』は吉田秋生先生による漫画作品である。『別冊少女コミック』にて1985年から1994年まで連載され、2018年にはフジテレビのノイタミナ枠でアニメ化された。

その年のナンバーワンアニメを決める、東京アニメアワードフェスティバル2019(TAAF2019)「アニメ オブ ザ イヤー部門」において、アニメファンの投票で1位となった名作。あらすじは以下の通りだ。

ニューヨーク。並外れて整った容姿と、卓越した戦闘力を持つ少年・アッシュ・リンクスは、17歳にしてストリート・ギャングをまとめ上げていた。
ある夜、アッシュは自身の手下によって銃撃された男からある住所とともに「バナナフィッシュ」という言葉を伝えられる。
それは廃人同然の兄・グリフィンがしばしば口にする言葉だった。
時を同じくして、カメラマンのアシスタントとしてやってきた日本人の少年・奥村英二と出会う。二人はともに”バナナフィッシュ”の謎を追い求めることに―。(公式サイトより)


1.アッシュと英二の愛のかたち(※ネタバレ含む)

ストリートギャングのアッシュと平凡な日本人の英二との出会いからこの物語は始まる。

アッシュはその並外れて整った容姿に目を付けた大人によって、性被害に遭ったり、マフィアに買い取られたりと過酷な少年期を送った。そののち、卓越した戦闘力でストリートギャングを取りまとめることとなる。

一方、英二は平凡な日本人。棒高跳びの選手として活躍していたが、スランプに陥り、英二を追いかけていたカメラマンの伊部俊一に連れられてニューヨークのストリートギャングの取材に同行することに。その際にアッシュと出逢い、「バナナフィッシュ」という薬物をめぐるマフィアとの争いへと巻き込まれていく。

はじめのうちは、なぜ平凡で平和慣れした英二がアッシュに同行し、マフィアとの争いに関わりたがるのか、なぜアッシュは突然現れた英二を守るのか、理解に苦しんだ。

しかし次第に、アッシュにとって英二という存在がいかに特別なものかが分かってくる。

不遇な幼少期を送り、周りの人間はすべて敵のように感じられたはずのアッシュにとって、英二はアッシュのことを周りの大人たちのように性的な対象としてみることなく、損得勘定抜きで接する唯一無二の存在なのだ。

アッシュはイノセントな存在として英二を求めていたし、英二はガラス玉のようなアッシュを一心に守りたかった。

さて、古代ギリシャには4種類の「愛」という言葉があったそうだ。性愛をあらわす「エロス」、友愛をあらわす「フィリア」、家族愛をあらわす「ストルゲー」、無償の愛をあらわす「アガペー」。(参考:モチラボ 「愛」には4つの種類があった!?

痛いほど切実にお互いを思いあう姿が終始描かれるが、それは決して恋情的なものではない。しかし確実に愛を感じられるのである。

アッシュと英二の間にあるものを「愛」という言葉で片付けてしまうのは、いささか安直な気持ちもするが、あえて「愛」と呼ぶのであれば彼らの間にはどのような愛があったのだろうか。

最終話でアッシュが読む英二からの手紙にはたくさんの「愛」が詰まっている。およそラブレターともとれるその手紙に、読者はアッシュの幸せを確信して、彼の死に涙するのである。

 

2.渡辺えり子さんが文庫版に寄せたエッセイに感銘を受けて

アニメを全話観たあとで番外編があると知り、それも含めて全巻を購入した。巻末に本作品へ寄せたエッセイがついた文庫版を選んだ。これが本当に最高で、このエッセイだけを何度も読み返したほどだ。

特に2巻に寄せられた渡辺えり子さんのエッセイ「私達の死体」は、筆者が長年感じていた自分の身体に関するモヤモヤとした気持ちが見事に言語化されており、ひどく感銘を受けた。

渡辺さんが幼少期から持っていた、自分の身体の女性性へのコンプレックスとアッシュとをリンクさせて語るという内容である。一部以下に引用したい。

アッシュ、この魅力的な人物は、私達女性でしか感じられないような傷を負って現れてくれる。まさに私の男性恐怖そのものを幼児の頃から抱えて生きながら、見事に男性的に活躍してくれる。ある意味での両性具有の神々の一人である。しかも絵空事ではない現実の問題提起もちゃんと表現してくれる。(小学館文庫『BANANA FISH2』「エッセイ 私達の死体」渡辺えり子 より引用)

筆者は物心がついた時から今まで典型的に女性的な体をしている。コンプレックスは胸だ。少し体のラインがでる服を着ると視線を感じ、ショルダーバックを斜めにかけても視線を感じる。そのたびに責められている気持ちになる。

私の身体には何の罪もないただの肉の塊であるのに、私の身体はフラットな存在としてみてもらえないと感じるのである。

自分の意に反し、性的な意味合いを付随させて見られている気がする。男女問わずそのようなことを言われたりもする。疲れる。不平等性を感じる。本当に疲れる。

このエッセイで渡辺さんは以下のようにも述べている。

セックスの対象としてではなく、魂の部分で寄りそうことのできる相手をアッシュが待ち望んだように、私もまた、損得や本能を超えた愛情を願い、生きていたように思う。(小学館文庫『BANANA FISH2』「エッセイ 私達の死体」渡辺えり子 より引用)

筆者も「魂の部分で寄りそう」とまでいかなくても、自分をフラットにみてくれる他者を常に求めている。だからこそアッシュに擬態して物語の中を冒険し、深く感動することができたのだと思う。

渡辺さんのエッセイは筆者が知らず知らずのうちに自分の中に作っていた身体の女性性へのコンプレックスを言語化してくれた。モヤモヤした気持ちの輪郭を掴めてすっきりした。

このエッセイも含め『BANANA FISH』という作品に出逢えて心から良かったと思う。

まだ読んでいない多くの人がこの作品に出逢うことを祈って。

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