批判すること

 先日読書録で取り上げた『正欲』とも共通することが書かれた記事を見つけました。自分に当てはまる事がたくさんあって、非常に耳が痛かったです…。

オバマ前大統領、ネット上の過激な批判カルチャーを非難「世の中は変わらない」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

  特に下記引用部分。

「この純粋さを重んじる考え、自分は決して妥協しないという態度、自分は常に政治的にウォークだという思い込みは、早々に忘れるべきだ」
「最近は特定の若者がこのカルチャーに毒されていて、ソーシャルメディアを通じてますます過激になっていると感じることがある。つまり、『俺はできるだけ他人を非難して、相手にいい加減にしろと言い放って、世の中を変える。あいつの行いは間違っているとか、あいつは文法すら知らないで喋っているとツイートしたり、ハッシュタグしてやるんだ。世の中のために良いことをした俺は気分が良くなって、あとは傍観者を決め込む。なあ、俺ってものすごくウォークだろう? だってアンタをこれだけ非難したんだから。じゃ、俺はテレビでお気に入りの番組でもみるかな』というような態度だ。」
(※註:ウォークとは…社会的不公平や人種差別に敏感であること)

オバマ前大統領、ネット上の過激な批判カルチャーを非難「世の中は変わらない」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

 
 「この純粋さを重んじる考え、自分は決して妥協しないという態度、自分は常に政治的にウォークだという思い込み」というのは、恥ずかしながら私にも覚えがある。
 X(旧Twitter)で差別的な内容のポストを引用する形で批判しているポストをリポストするたびに、私は「自分は正しい事をしている」という感覚が確かにあった。私にとっては自戒の意味も込めて行っていたが、「私は正しい」という正義感に溺れていたとも思う。

 以下、既に引用した部分も含めて他に印象的だった箇所を引用します。


「世界は厄介な状況だ。いくつもの両義性が存在する。真に善い行いをしている人にも欠点はある。君たちが争っている相手にも愛する子供がいるだろうし、君たちと共通することも確実にあるはずだ」
「最近は特定の若者がこのカルチャーに毒されていて、ソーシャルメディアを通じてますます過激になっていると感じることがある。つまり、『俺はできるだけ他人を非難して、相手にいい加減にしろと言い放って、世の中を変える。あいつの行いは間違っているとか、あいつは文法すら知らないで喋っているとツイートしたり、ハッシュタグしてやるんだ。世の中のために良いことをした俺は気分が良くなって、あとは傍観者を決め込む。なあ、俺ってものすごくウォークだろう? だってアンタをこれだけ非難したんだから。じゃ、俺はテレビでお気に入りの番組でもみるかな』というような態度だ。こんなものは行動主義じゃない。こんなやり方で世の中を変えることなどできない。そうやって気に入らないものに石を投げつけているだけなら成功には程遠い」

  特に、「世界は厄介な状況だ。いくつもの両義性が存在する。真に善い行いをしている人にも欠点はある。君たちが争っている相手にも愛する子供がいるだろうし、君たちと共通することも確実にあるはずだ」という部分は大切だと思いました。

 ただ、だからといって「正しさ」が要らないかというとそうではない。「正しさ」がなければ悪い意味で何でもありになってしまうからだ。

 一人一人の価値観が違うという事がはっきり見えてきているからこそ、「何が正しいのか」を考えつつ、安易に「誰が何が悪い」と断定し白黒つけるのではなく、色んな価値観の間を行ったり来たりしながら揺らぐことが必要なのではないだろうか。


 望月 香夜


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