「宅急便の父」は恥ずかしがり屋だった?本と人と――帝京大学出版会顧問のコモンせんす(2)
今回の本:小倉昌男に関する本『小倉昌男 経営学』『「なんでだろう」から仕事は始まる』など
「今のうちの経営、どう思う?」。居酒屋のカウンター席で小倉昌男は、つぶやくように尋ねてきた。
今や社会インフラとなったヤマト運輸の宅急便。小倉は同社の社長を父から引き継ぎ、経営が傾いていたヤマトの業態を、自ら考え抜いて生み出した宅急便に絞り、一気に大転換、発展させた。
小倉からの問いかけは1991年のこと。当時はヤマトの会長から取締役相談役に退いていた。私は運輸省(現国土交通省)詰めの記者として陸運業界も担当していた。ヤマトは取材先の一つ。しかし、大企業の経営トップが担当記者と肩を並べて「差し」で飲むことはまずない。
私ごとになるが、小倉の夫人の実家と私の生家が近所だった。私の姉が中高の先輩である小倉夫人(旧姓は私と同じ)に可愛がってもらっていたという縁もあり、互いに身近に感じていたこともあろう。そんな縁からか、冒頭のような問いかけがあったのかもしれない。
小倉の問いへの私の答えは差し控えるが、問いかけから2年後に、自分の後任となっていた社長を交代させ、自らは「2年限り」という条件で、会長に復帰。その後、社内改革を果たした。予告通り2年後にきっぱりと会長をやめ、経営から身を引いた。以後はヤマトの保有株をもとに設立していた、障がい者が働くベーカリーを展開する「ヤマト福祉財団」の運営に心をくだいた。
著作の『小倉昌男 経営学』(日本経済新聞社刊)などでは、宅急便の商品開発のいきさつや自身のビジネス論、人生観が語られている。
曰く、「既得権を守る役人たちとの闘い」。路線トラック免許を申請したが、なかなか認めない運輸省を相手に行政訴訟を起こした。既存の業者の既得権を守ろうとする役所の「妨害」は筋が通らない。それには我慢ならなかった」。
こう書いてあると、闘争心にあふれ、ズケズケともの言う経営者のように思われるものだが、接してみると物腰はやわらかである。
曰く、「私は気が弱い。引っ込み思案で恥ずかしがり屋である」。確かに小倉の話しぶりは静かで含羞(がんしゅう)を帯びていた。「許認可権を持つ役所を相手に闘ったあの情熱が、どこに秘められているのだろう」と思わせたものだ。
曰く、「『社格』の高い会社を目指そう」。小倉との懇談で、私はよく「人間に『品』が問われるように、会社にも『社品』が求められる。特に急成長した会社は」と話していた。それを小倉が「社格」という言葉に換えて採り上げてくれたのだとは思わないが、彼は「感謝され、尊敬される会社を」と著作で述べている。
翻って、先日、ヤマトの営業所に「期限付きで転居先への宅急便転送届けはできませんか」と願い出たら、手間やコストがかかる、という理由で拒否された。競争相手の日本郵便は、1年間は郵便物を転送してくれる。小倉が亡くなって19年。さらに大きくなり、特にクール宅配便では独占状態となったヤマトは、小倉が本で述べている「サービスが先、利益は後」の精神を忘れてしまったのだろうか。
曰く、「身銭を切ること」。小倉との懇談はいつも安いところで、割り勘にさせてもらっていたのは言うまでもない。
(敬称略)
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