自分はファンとして大丈夫なのか

最近私の好きなジャンルでファンとしての在り方を問われるような出来事が立て続けに起きている。
とても苦しいし重い。
推し方は人それぞれあるけれど誰かを苦しめる推し方は良くない。
それは当然なんだけど。

私は推しに認知されるのがとても怖い。
認知された途端に「近いのに遠い」になってしまう気がするから。
好きになった時点で推した時点で「遠くて近い」ものだった。
近いのに遠いになるとその人の環境まで干渉したくなる。
己が出てしまう。
そして何もできない無力感が出てしまい焦って行動してしまう。
けれど遠くて近いと干渉できないほど遠いと感じる。
だから何できないし何もしない。
焦ることもないしじっくり時間をかけてその人を見ることが出来る気がする。

自分にどれだけの影響力があるかを考える。
SNSとかでの発信の場合その人がエゴサーチをして嬉しくなるような発信をしていきたい。
それは全力で盲信しろというわけではない。
否定だけを述べるのは違う気がするから。
誰しも否定だけをぶつけられると嫌な気持ちになる。
だから否定ばかりではなく「これが良かったけど私にはこれが合わなかったので見方を変える」と発信するとしたらこう発信していきたい。
そもそも自分が大多数の1だということを忘れない。
私の言葉には力はない。
誰かを変えるほどの力はない。
その人の何者でもないただの遠いファンだから。
どれだけその人に認知されようがただのファンだから。
けれど否定だけをぶつけた1はそれは人を傷つけてしまう可能性があることを忘れないでおきたい。
良い所が一つも見つからなかったのなら何も言わず離れていくことが良い気がする。
離れていく人が多くなれば自分の推しも何が悪かったのか考えるきっかけにもなる。
ただ否定だけをぶつけられると傷つくし意固地にもなる。
冷たいかもしれないけれどその人の自由な活動を邪魔してはいけない。
ただ推している人の行動が犯罪や倫理観に触れるものはそれは声を大にして否定してもいいとは思う。
そこは臨機応変にしておきたい。

顔ファンや才能ファンもみんな笑顔になる推し方をしたい。
もちろん自分が好きで推してる人が笑顔になるのが一番のはずだから自分の中の正義をぶつけたくない。

自分の中の正義は自分に向けるのが良い気がする。
自分は常に正しく存在できているか、存在できてない時の自分のケアはできているのか。
それで精一杯生きていくしかない気がする。
その中で癒やしとして推しが出来る。
その人の表現するその人を受け入れていくしか無いと思う。
一部分が許せないのならその面は見ないようにしたり離れたりすればいい。
恋人や家族じゃないのだから都合よく見て構わないと思う。

公に活動してる人全てに顔ファンはいるし、才能ファンもいる。
その人たちみんな同じように推せとも引くなとも思わない。
ただ推してる好きな人やその人のファンが悲しい顔をしないで済むような推し方をしていきたいと思う。
みんな笑顔に悲しい顔をしなくて済むように。
それがファンの在り方をじゃないかと思う。


これはあくまで私の思考の話。

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