花は咲く

「花は咲く」に寄せる父との思い出

令和2年3月3日。その日はなんだか
沢山のタイミングが重なった日だったように思う。

その日わたしは会社を少し早めに退社して、
体質改善のコーチに会い、「今のアンナちゃんに読んで欲しい本があったの」と本をもらった。びっくりするほどドンピシャで、これから歌のレッスンに行くというのに電車の中で本を読み泣き出した。

その日は初めて会う音楽コーチとのレッスンで、コーチは事前に、私の歌を聴いていてだめだ思っていたらしい。3時間みっちり矯正してもらい練習するうちに
「じゃあレコーディングしてみよっか※」と、あれよあれよという間にピアノ伴奏に合わせて、3月のミニライブで歌う予定の曲「花は咲く」を録った。

※コーチ曰く、私は練習の3時間で磨かれたそうだ。これからが楽しくなるぞーと私の持ってきた曲に伴奏を付けてくれることになった。4月のライブに初めてのオリジナル曲が出せそうだ。

 花は咲くは2011年に起きた東日本大震災のチャリティーソングとして作られた。人によってはとても思い入れのある曲なのではないだろうか。
そして、私にとっても「花は咲く」はとても特別な歌だ。

 この曲は死んだ私の父から授かったものだった。

今回の記事は「花は咲く」という歌に寄せて、父との思い出を書く。

父との関係

 東北生まれの父は優秀で、頑固で、それでいて不器用だった。父の好きなことは旅行で、私が幼いころはよく家族で日本全国を回った。小さい頃はケンカもしたけれど、仲の良い親子だったように思う。
 でもそんな、父と娘の関係は時がたつと変わっていった。当時の私にとって「家族」はコンプレックスの塊で、できるだけ触らずに生きていたいと考えていた。そんな私に対して、父は時々ご機嫌伺いなのかものを買ってきたり、私と仲が比較的良かった母から間接的に私の様子を聞いていたらしい。

 今思えば、父は長い長い思春期を抱えた私とどうにかコミュニケーションを取りたかったのだろう。けれど自意識が膨れ上がった10代の私にとって「腫物を扱うような」父のその行動は「火に油を注ぐ」行為であり、見る見るうちに親子の心の距離は離れてしまった。

中高生時代~父が死ぬまで、私は父と心を通わせることなく終わってしまった。 

 結局父は晩年重度の糖尿をやり、晩年はほとんど寝たきりになって心不全で死んでしまった。私が19の頃だった。
私は最期に父とどんな会話をしたのかすら覚えていない。

救急車で運ばれた父を見送っていたとき、不思議と涙は出なかった。人間はよくできたもので「大丈夫だろう」と勝手に良い方向に考える癖がある。わたしも例外ではなかった。自分にとって父とは何だったのかわからないまま、父は帰って来なかった。

 母は遺族だけの小さな葬儀に音楽葬を選んだようで、父の好きな歌を選んであげようと父の残したCDを探していた。私はふと、以前iphone4を父から譲り受けて使っていたことを思い出し、引っ張り出しitunesのプレイリストに「花は咲く」を見つけた。

 ここからは花は咲くに寄せて、「震災と父」「娘と父」について思い出を書いていく。

震災と父

 なぜ父は「花は咲く」をプレイリストに入れていたのか。本人に聞くことはもうできないが、例えば、震災で傷ついた故郷と自身の心を癒していたのかもしれない。

父がなくなる数年前の出来事。私が学校の春休みを迎えた3月11日に「東日本大震災」は起こった。東北出身の父は自分の生まれ故郷への出来事がショックだったのだろう。すっかり元気をなくした父は、その数年後、早期で会社を退職し家に引きこもってしまった。

そのあたりから父と娘の関係は最悪だった。もともと糖尿を患っていた父の病状は震災後からどんどん悪化していった。次第に弱弱しくなっていく父を許せない自分がいた。

 ふと、父が亡くなる2か月前に家族で3年ぶりくらいに千葉県内の旅行に行くことになった。丁度私が大学受験に失敗し、1年浪人が決まったタイミングだった。
 中高生時代、私は家族を避け、部活にのめりこんだこともあり、土日を部活に費やしたものだから、家族との時間は必然的に減った。もしかしたら、私の高校3年生~大学浪人時代のゆったりとした時間は、神様がくれた家族で過ごす最期の時間だったのかもしれない。

母の運転するワゴン。車内の会話などなく、その頃の私にとって、受験に失敗した事で自尊心をごりごりすり減らしている真っ只中。こんな旅行さっさと終わらせて帰りたいと終始、心の中でごちていた。 
 一方の父は家に引きこもりがちになっても、この旅行だけは病気でしおれた体を起こして杖をつきながら、母に支えられながら観光していた。その背中が背中がとても小さく見えた。
 
 父は日本が好きだった。絶対に家族を国外旅行に連れて行かなかった。父は集団就職を経験してから英語を猛勉強し、海外の大学を卒業し、海外で就職した。その経験を買われ、ある日本企業に引き抜かれたという。私は小さいときによく空港へ父を海外出張のお見送りに出かけた。父は出張から帰ってくると決まって「やっぱり日本が一番だ」と言って、家族ががさんざん駄々をこねても海外旅行には連れて行ってくれなかった。

世界を見た父だからこそ、日本が大好きだった。だから「震災」という出来事にひどく心を傷付き、歌に癒しを求めたのだろうか。

娘と父の関係

 私と父との関係の変化を記していく。
 私が家族を避け、父との確執が生まれてから、私はずっと父に疎まれていると思っていた。優秀な父と違い、自分は何もない、そんな軋轢に自分から締められにいった。父に執着し、父に認められたかった。父が死んだとわかった瞬間、「父に認められる」という自分の目的を同時に失い、生きる意味を失った。そして悲しかった、ホッとしたとも言えるよくわからない感情が巡った。 

 あるとき、空っぽになった私に母は父の遺品データを見つけて私に見せてくれた。
 そこには自分が死んだら云々の事務系の話がつらつらあったが最後に一行だけ母に向けてか「子どもたちをよろしく頼む」と一言だけ書いてあった。 

 私がお金に苦労することのないようにと、4年分の学費をためていてくれた。なんで言わなかったのさ。

 私は父に大事にされていたとようやくそこで気づいた。頑固者で不器用な父らしいと思った。そしてひどく後悔したことを覚えている。
 
「どうしてあの時心にもないことを言ってしまったんだろう。」 
「もっと早く向き合えたらなにか変わったのだろうか。」

ごめんなさい。ありがとう。と本人に一言謝ることさえできない辛さの意味を知り、しばらく自分を責めた。

娘と父と繋がる縁

 
 父を亡くした後、父の出身県の大学に受かった。(正確に言うとそこしか受からなかった)母を置いていくのは忍びなかったが前に進んだ。

これは父の事を何も知らなかった私はこのきっかけは父を知るチャンスなのではと思った。

父の死はに焼き付いた。
やらずに後悔するなら、やって後悔しようと思うようになった。
命の有限さを知り、今を全力で生きようと思えるようになった。

父の死はでもあった。
父の実家で私の知らない父のことを親戚の方は教えてくれた。
進学先は震災地域に近かったから、父の面影を追ってよく復興ボランティアにも顔を出した。
この大学に進学したから得られるものもたくさんあった。

そして、父が死んでもうすぐ7年になろうとしているが、
今でも新しいことに気づかされる。

気付きのきっかけは以下の本。

※前書きから引用※
その日わたしは会社を少し早めに退社して、
体質改善のコーチに会い、「今のアンナちゃんに読んで欲しい本があったの」と本をもらった。びっくりするほどドンピシャで、これから歌のレッスンに行くというのに電車の中で本を読み泣き出した。

その本がこちら

幕末の思想家、吉田松陰の言葉を現代風に訳してくれている本。その本の中にこの言葉があった。

(前略)人の寿命というものは決まっていません。その人にふさわしい春夏秋冬みたいなものがあるような気がするんです。100歳で死ぬ人は100歳なりの四季が、30歳で死ぬ人は30歳なりの四季があるということです。(中略)
わたしは30歳で四季を終えました。私の実りが熟れた実なのか、モミガラなのかはわかりません。ですがもしあなたたちの中に、私のささやかな志を受け継いでやろうという気概のある方がいたら、これほどうれしいことはありません。いつか皆で収穫を祝いましょう。その光景を夢に見ながら、私はもういくことにします。

人間の本質は生きるか死ぬかではなかった。吉田松陰の関心は自分の生を全うできたかであった。肉体は滅びても志は滅びない。故人の魂は受け継がれ、ともに歩んでいる。

 この本を読み、自分の中にあった、父へ向き合えなかった自分の罪悪感から完全に開放されたような気持ち。父は身をもって私に教えてくれた。私の中に父との記憶は生きていて、それが私を突き動かすエネルギーになった。父は私に魂のバトンを渡してくれたのだ。

花は咲く

 改めて、令和2年3月3日なんて濃い一日だったんだろう。
本を読んだらドンピシャで、7年間の苦しさから完全開放され、憑き物が落ちたような気分で「花は咲く」をうたったら新しい自分に出会うことができた。
コーチは曲歌うときに好きな人を思い浮かべなよといった。
なんとなく私が思い浮かべたのは父だ。

以下は「花は咲く」の一節だ。

花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
私は何を残しただろう

これを見て、私は先ほど読んだ吉田松陰の本を思い出した。肉体は死んだらなくなってしまう。しかし、その人の生きた証、魂は受け継がれる。

父から私に残してくれた心を感じながら歌った。
憑き物が取れたような気持ちになった。無理しなくていい。
心のなかにあるものを素直に吐き出そう。父の存在は、私の音楽をより豊かにしてくれた。

 私がレコーディングを終えた日の夜にコロナの影響を受け令和2年の東日本大震災追悼式が中止になったというニュースに気づく。

残念でならない。

そして、同時にこの発表の日に父を思い出し、辛い記憶から開放された。
花は咲くをレコーディングしたのは偶然ではないと思った。

 最近暗いニュースが続くが、どうか、目先の事に怯えずに生きていこう。父の愛した日本に、そして、東北の皆さまへこの歌が届きますように。

※動画の花は福寿草
の花言葉は「幸せを招く」「永久の幸福」「悲しき思い出」。

乗り越えられない悲しみなんかない。
例え今日死んでしまっても良いと思えるそんな日々を送ろう。



 皆さんにお願いがあります。もしこの記事を読んで、この歌を届けたいという人がいたら届けて上げてください。ここまで読んでくださりありがとうございます。

2020年3月5日
結城アンナ 
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