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食べたいときとは生きたいときらしい

こんな文章を見つけた。

食べるって、生きるための行為です。ということは、食欲=生命力なんです。食べたいという欲求が強い人は、それだけ生きようとしているってことなのです。

では過食に走るというのは「生きたい」という思いがそれだけたくさんある時なのだろうか。これについては、

「大量に食べたくなるのは、生きている実感が乏しいから」

であるという。

なぜそんなにまで食べてしまうのかと言うと、自分の力を発揮しきれておらず、エネルギーが有り余っているからなのです。要は、退屈しているんです。食べることによって、一時的に生きていることを実感できる(無意識ですが)ため、虚しさを紛らわせようとして大量に食べてしまうのです。

これは大変的を射ていると思った。

これまでは、将来したいことのために毎日人と繋がったり、勉強したりetc.私は周りから見たら確実に「意識高い系」側の人だった。自分自身も、そんな自分に満足していた。

しかし、留学から帰ってきてから院試と卒論提出も完全に終え、「自分軸での」自分のすることとしたいこと、熱中できることが見つからない日々を送っている。コロナなので海外に行くチャンスもない。今年の夏にこの前使えなかったチケットを使ってインドのホストファミリーのもとに遊びに行ってボランティアにも参加しようと思っていたが、無理だ。来年の春には大学生時代最後としてひとり東南アジアバックパック旅行をしようと思っていたが、これも無理になりそうだ...

大学院入学までにすると良いだろうという勉強はあるが、3月になってから始めれば良いだろうとどんどん延ばしてしまう。申し込んでいた大学の課外活動も来週から始まるのだが想像していたものと異なり、興味がそこまで湧かないので準備しようという気にもならない。部誌の編集もしなくてはならないが、締め切りまでまだ時間があるので、と先延ばし。

なので、推しの情報を追うこと、朝に運動すること、ウォーキングに行くこと、寝ること、そして食べることしかすることがない。推しへ愛を注ぐことは楽しいが、相手ありきの趣味なので、自分が何かをした、という感覚を得ることは難しい。

ライブに行って人と繋がったりイベントで友達が直接作れれば楽しいのだろうな。しかし現在はそれも無理である。

推しのトレカを製作して気を紛らわせようとしていた時期もあったが、薄くすべきことがある状況でやるのも気が引ける。

こうして「これもできない、あれもできない」と考えるにつれて自分の思考もマイナスで固まり、何もかもマイナスから入ってしまうようになった。それを以前のポジティブな自分と比べてしまってさらに辛くなる。

暇だと食べるので、今日の午後はひたすら寝ていた。色々ストレスが溜まっているのだろうが、訳もなく涙が止まらなくなり、そのまま寝たので目が腫れた。

親に相談しようにも、漠然としているので相談しにくくできていない。友達に相談するのがいいのだろうか。

そんなことを考える夜である。


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