2024年 3月 冬と春のあいだに もうひとつの季節がある



3月1日(金)
今日は納品が終わったあとの挨拶回りで、ずっと浅草を先輩と一緒に歩き回っていた。

納品がひと段落し久しぶりの緩い1日。
うららかな散歩日和。天気が良いことも相まってとてもいい気分で、隅田川沿いを歩いたり美味しい定食を食べたりして、久しぶりに穏やかな心持ちで仕事ができた。
「今までありがとうございました。これからもお願いします。」と言いながら色んな店舗を梯子した。メールとのやりとりで納品までしたため、実際に挨拶するのは今日が初めてだった。今までずっとパソコンに向かい合うばかりであったけれど、こうして人と相対して生活者に1番近いところに立ったら、ああ今までのわたしの仕事はこの瞬間のためにあったのだと思った。

仕事の後、先輩と同期の子たちと4人で飲んだ。わたしの先輩と、ある同期の子は大学時代ルームシェアしながら一緒のサークルでZINEを作っていたらしい。教授に読み上げられたお互いの講義のレジュメが面白いと思って仲良くなったのだと馴れ初めを教えてくれた。素敵な馴れ初めだ。「腐れ縁」と自嘲していたけど、彼らの話しているのを聴いていると、それはよく交わし慣れたキャッチボールで、一瞬一瞬の応答から、今までの数えきれない会話の分厚い蓄積と分厚い信頼の念が垣間見える。ボールがどういう軌道を描いてどういう風に向こうに着地するのか、相手が受け取ってから投げるまでの間合い、そういうのが全部お互いに大体分かり合っているコミュニケーション。聞いているだけでどこか心地よい気持ちになった。


3月3日(日)
今日は先月12日に会った友人と念願の角野栄子さんのドキュメンタリーを見に立川まで来た。
彼女とはお互い角野さんのファンであることから、以前に葛西にある角野さんの文学館へ一緒に行って、NHKのドキュメンタリーを観たりしていた。実は、先月12日に見にこようとしたのだけれど、私があろうことか、前の日のチケットを取ってしまっていて見れなかったため、今回は念願なのだった。

blow wind blow
新天地のブラジル。越して来たばかりで不安な頃、窓から吹き込む土地の風の吹かれたら、ここで生きていけると思ったという話が1番好きだった。キキの姿が多重露光する。毎日ちがう風に吹かれ、色々なものや人との網目のような相互作用のなかを良かったり悪かったりしながら私たちは生きている。

「思い出は未来で待っている」
角野さんがお爺ちゃんになったルイジンニョ少年との再会を果たした場面、彼らは「思い出は未来で待っている」のだと頷き合った。そんな確信を持ちながら歳を重ねられたらどんなに素敵だろう。いつかこの点にまた巡り合えるという希望、そう信じて、小さなひとつひとつの点を大事に大事に自分のなかに留めておく。そうして結ばれていく線のたしかさがある。

「体に心地よいものをいちばんに」
角野さんの身軽さがとても尊い。自分の真のしたいこと好きなことその気持ちを1番に、その気持ちを育てながら生きること。言葉にするとこんなにシンプルなことなのに、わたしはまだ自分の森で迷子になることの方が多い。自分のほんとうの声を確かにみつけてその通りに生きていくことは、どうしてこんなにも難しいのだろう。

あと、『ねこぜ山動物園』に出てくるらしい、甲羅にたまたま咲いたたんぽぽを大事にする亀がとても可愛くて愛おしかった。歩きながらふと足を止めて振り返り、背中にたまたま咲いたもう一つの命の姿に優しく微笑む姿が堪らない。この亀を見ていたら、小さな生き物や無生物への祈りのような愛の感覚は、小さい頃たくさん絵本に教えてもらったことを思い出した。今もこの先も、この感覚は大切にしたい。
映画を観た後も、瞼の裏で角野さんの姿を思い出す度にじんわり胸が温かかった。




3月4日(月)
久しぶりの定時退社!やったね
家着いてすぐにおばあちゃんからもらったおよちゃんのかき餅ばりばり食べた。
ご飯の後、キッチンの壁紙をいい感じに張り替えた。もう一日必要と思う

3月5日(火)


3月6日(水)

3月7日(木)

3月8日(金)

3月9日(土)

3月10日(日)
今日はゼミ仲間で第2回目の東京アースダイバー会。 
普段は見えないコンクリートの下にある東京の歴史(と歴史にならなかったたくさんのもの)の地層に目を凝らすまち歩き。第一回目は四ツ谷・鮫川橋界隈を歩いたが、第二回目の今回は増上寺周辺から東京タワーの足元、そして新しく立った麻布台ヒルズのある我善坊谷周辺を歩いた。
今日の小噺は、手土産に最近お気に入りのアン食パン屋さんのミニ食パンを持って行ったら、わたし以外の全員がなぜが朝ごはんにあんこを食べてきたことが判明したことだ。なにか見えない大きなものの動きを感じる、奇妙な偶然。


3月11日


3月12日


3月13日
綺麗な下弦の三日月。
駅の出口でしっぽぷりぷり仁王立ちのトイプードルが帰ってくる主人を飼い主さんと一緒にお出迎えしていて可愛かった。


3月14日
美しいと思うものや人がいるから生きていけている。それがすぐそばにはないものでも。


3月15日
新しく特技を見つけた。お味噌汁にいれるお豆腐を、めちゃくちゃきれいに32等分できること。


3月16日
遠く青森に行ってしまった大学時代の親友に、
交換日記を書いた。会えていないけど、いつも彼女のことを想うだけで不思議と元気になる。


3月17日
今日はリニューアルオープンした横浜美術館で横浜ビエンナーレ「野草:いまここで生きている」を見に行ってきた。

志賀理江子さんの宮城県猟友会小野寺望さんへのインタビューに出会った。
自炊を始めてからスーパーのお肉売り場の前で薄々気がつきながらも考えないようにしてきたことがありありと炙り出されていて、耐え難くなる。

どれだけの力を生き物に振るわないと死なないのか、どれだけの贓物が腹の中から出てくるのか、それでもって食うっていうことをしてきたんだから、人間は。 それを見せないで売る、食うのは感謝なさすぎ、己を騙しているようなもんだ。

鹿のゆくえ

あるいのちの先にわたしのいのちのゆくえがある。この目で確かめない限りには、一生己の命に真に向き合えない気がした。調べてみると、どうも芝浦に肉の情報館なる見学できる施設があるらしく、早速4月のお休みにいく予定を立てた。


3月18日
Now loadingのままだったけれど、とりあえず寝た。

3月19日
芯の揺るがなさを抱えながら軽やかにあれるひと。実はとても妥協なく、思慮深い。そこに自分がどのように映っているのか知りたくて、近づいたり離れたりしながら、わたしはまだ自信がない。やわらかく自分を信じる勇気、それも必要。


3月20日 
女友達ってよいものだ。フリーズしてる悩みをばさばさ断じてくれる偉大な関白。ひたすらに心強い。


3月21日
ありがとう、とひとりひとりにメッセージ返していると、わたしが日々たくさんの人にお世話になりながら生きていることを改めて実感して、胸がいっぱいになる。
自分のいのちの時間に触れるとき、イ・ランのエッセイで韓国ではいのちの時間の数え方が違うことを知った時の衝撃を思い出す。

韓国ではたしか受精してからが「いのちの時間」になるらしい。
わたしの「ほんとうのいのちの時間」がわからない。受精卵になったときから?子宮を出た時から?魂であるときから?自我を持つようになったときから?自分のほんとうのいのちの時間さえわからないという事実がなんとなく嬉しくもあった。


3月22日


3月23日
久しぶりの美容院。
パーマをかけるから長く居座っていたのだけど、入れ替わった両隣の人が行き違いで最近地震が多くて怖いねってはなしをしていて驚いた。同じことを経験して同じことを思うのって、今の時代かなり珍しいことなのに。それだけ切迫する問題だと捉えている人が多いってことなのかもしれない。わたしもちょうど最近備蓄水を買ったばかりだった。この風土から立ち上がってくる「日本人」みたいなものの精神性、この土地で生きる人は、災厄とどのように関係してきたのだろう。


3月24日
朝、寝ぼけ眼で見つけたフェロー諸島。
深夜に聞いたDaisy Holiday で、細野さんとゲストの水原姉妹がMV撮影の話をしていて、先週ちょうど文壇バーで聴いた話だ!と東京の狭さを感じる。


3月25日
歩く。
地面から水が湧き、流れるべきところに流れ、また地面に染み込んでいくように。


3月26日
数日前からずっと思い出せそうで出せなくて、モヤモヤし続けていた短歌になりそうな瞬間を、ルーティンのなかの同じ瞬間にやっと思い出せてすっきり!

長湯して喉カラカラのお風呂上がりに水を飲むとき、ある臨界点で「飲む」という行為が自分で制御できない瞬間がある。突然に顔を出した野性、あるいは本能、得体の知れない底深い生命力。その瞬間まで気が付かなかったけれど、それはずっといた。今まで会ったことない自分の一部が突然顔を出したので慄き怯みつつ、そんなに懸命に生きようとしているそれがなんだか面白かった。

繰り返しの中で時が巡りまた“その時”がやってくる気持ちよさ。TURNTURN


3月27日

3月28日
今日は、年度末に浅草で最後の挨拶周りに1人で行ってきた。
浅草の大好きな定食屋さんでお昼ごはんを食べた。
今日はとても天気が良い。
気持ちの良い春の風に吹かれて心踊る。
つい一昨日までは冷たい雨土砂降りの春の嵐だったのに、嘘みたいにうららかな小春日和だ。

ようやく春が来たと思ったらまた寒くなる。
そう思ったらまた温かくなったりして。
でも、段々とジャケット1枚で大丈夫な日が多くなっていくように、寒かったり暖かかったりを繰り返しながら、着実に春に近づいている。

この冬と春のあいだの日々が無限に好きだ。
やがてやってくる春よりもどこかで。

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