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不倫は果たして悪いことなのだろうか?


「不倫」。

皆さんはこの言葉にどのような印象を抱くだろうか?

多くの方が、「不倫はやってはいけないこと」「不倫は悪いこと」といった印象を持っているのではないかと私は推測している。


最近の某俳優の不倫報道。あの時の世間の反応はすさまじいものだった。

その俳優を擁護している者は私が見た中では一人も見受けられず、その俳優と不倫相手の某女優に怒りの矢が全方位から降り注がれていた。

さらに最近の某芸人の不倫報道についてもそうだ。

もはやネタにされている側面もあるが、その裏の顔に多くの国民は怒り狂った。

つまるところ、私たちは「不倫」についてかなりの悪印象を抱いている。


しかし、よく考えて欲しい。

「不倫」という行為は果たして悪いものなのだろうか?


…こんなことを言ってしまったらこの記事を見ているほとんどの人に叩かれてしまいそうなものだが、前もって述べておくと、この記事は不倫を肯定するような内容のものではない。

確かに記事のタイトルをみると私があたかも不倫を肯定しているように感じとられるかもしれない。しかし、ここで検討することは、

「『不倫』という『行為』は『悪』なのか?」

という点である。


それでは本題に入っていこう。


「不倫」は悪か?


「不倫」は果たして悪いことなのだろうか?

これについて、まず結論から先に言わせて頂こう。


私は「不倫」という行為それ自体は悪ではないと思っている。


それでは、なぜ私がそのような考えに至ったのかを順に説明しよう。



「不倫」ってそもそも何?


そもそも「不倫」という行為は何を意味しているものなのだろうか。

調べてみると、どうやら「不倫」とは、「道徳にはずれること。特に、配偶者以外と肉体関係をもつこと。また、そのさま。」という意味らしい。

なるほど、確かに「不」という漢字は「打ち消し・否定」を意味しており、「倫」という漢字は「人が収め、守るべき道」を意味していることから、「不倫」という漢字が「道徳にはずれること」を意味しているのは納得である。

しかし私たちが「不倫」について普段連想することは、その後の説明にも記載してある、「配偶者以外と肉体関係をもつこと」であろう。

なのでここでの「不倫」が指す意味は、「配偶者以外と肉体関係をもつこと」であると定めることとする。



なぜ「不倫」はいけないこと?


それでは、なぜ「配偶者以外と肉体関係をもつこと」が「道徳にはずれること」なのだろうか?

「そんなの当たり前だろ!」

と思われるかもしれないが、得てしてそのような「当たり前」のことは説明することが難しかったりするのだ。また、「当たり前」のことが「正しい」ことなのかも分からなかったりする。

さて、ここからはこの「当たり前」のことについて説明する為に、「ソクラテス式問答法」を用いることにしよう。

「ソクラテス式問答法」とは、超簡単に言うならば「それって何なん?」を繰り返していくことである。


ということで、「ソクラテス式問答法」を用いて、なぜ「配偶者以外と肉体関係をもつこと」が「道徳にはずれること」なのかを説明してみたいと思う。


まず「配偶者」とは何か。これは「婚姻関係にある相手方」を意味するものであるとされている。

では「婚姻」とは何か。これは「社会的に承認された夫と妻の結合」であるとされている。「婚姻届」はこれからそのように社会的に承認される為の誓約書のようなものであることが理解できよう。そしてかなり平たく言ってしまえば、「結婚すること」とほぼ意味は一緒であると言えるだろう(ちなみに現状の日本においては同性婚は承認されていないので、これは男性と女性の結合を意味している)。

ということで私は「婚姻」について色々調べてみることにした。すると、どうやら「婚姻」をすることによって様々な「義務」が発生するらしい。

その様々な「義務」を調べていると、本記事のテーマを考える際に特に重要であるものを見つけた。それが「貞操義務」である。

それでは「貞操義務」とは何なのだろうか。

「貞操」の意味はまた複数あるのだが、ここにおいて一番近しいものは「夫婦・恋人同士が性的純潔を守ること」であった。

つまり、「他の異性とチョメチョメしないことを約束する」ということだ。

ちなみに「義務」とは、「道徳や法律上の規範によって要求される、しなくてはならない、またはしてはならないこと」であるとされている。

つまるところ、「貞操義務」とは「他の異性と『絶対に』チョメチョメしてはならない」ということである。


ここまでの話をまとめると、こういうことになる。

私たちは『婚姻』によって、『他の異性と絶対に、ゼッタイにチョメチョメしてはいけない』という『義務』を背負う」ということだ。

そしてそれを破る行為が「不倫」というわけだ。


しかし、まだそのような義務を破る行為が「道徳にはずれること」である、という理由は説明しきれていない。

ということで、次に「道徳にはずれること」について考えてみよう。


まず、「道徳」とは何か。

言葉の意味については「正邪・善悪の規範」を意味していると説明されている。

つまり、「正しいことや善いこと」が「道徳的」であり、「正しくないことや悪いこと」が「非道徳的」である、ということだ。


それではどのようなことが「正しいことや善いこと」であり、どのようなことが「正しくないことや悪いこと」なのであろうか。


…この基準を説明することは難しい。長年の哲学的な問いである。

なので、ここでは一つの「具体的な事例」を取り上げて、それが「道徳的」であるか「非道徳的」であるかについて考えてみよう。


その「具体的な事例」とは、先に取り上げた「貞操義務を破る」ことである。

私たちは、結婚しているのにも関わらず、相手に「貞操義務を破られた」、すなわち「不倫」をされた場合、一体何を感じるのだろうか。


その多くの場合、「裏切られて傷ついた」という感情なのではないだろうか、と推測する。

人は誰だって、約束を破られたら少なからず「裏切られた」と感じ、「傷つく」ものだ。ましてや今回のケースは「約束」の上位互換、「契約」のようなものだ。守らねばならないとされているものなのである。

そのような「契約」を破られたら、「裏切られて傷ついた」という感情になるのはいたって自然であることだ。

それでは、相手を「裏切り、傷つける」ような行為は「正しい・善い」ことであるだろうか、はたまた「正しくない・悪い」ことであるだろうか


私はイマヌエル・カントのいう「定言命法」に従い、この「裏切り、傷つける」行為を「正しくない・悪い」こと、すなわち「非道徳的」な行為であること定めた。


さて、長くなってしまったが、これまでの話について簡潔にまとめよう。

『不倫』という行為は、それによって相手を『裏切り、傷つける』行為であるから『悪い』ことなのである

私たちはこのように認識しているのである。



「不倫」って絶対にいけないことだと言えるの?


「不倫は相手を傷つけるからいけない」。

普通に考えたらそれは当たり前のことなのかもしれない。なのでここで一つ、さらに問題提起をしてみたい。


…「不倫」って、必ずしも相手を「裏切り、傷つける」行為であると言えるの?


いや、どういう状況だよ。と思われるかもしれないが、一つそれに当てはまると思われる例を紹介しよう。

それは、お互いが貞操義務を破ることに合意している場合、である。

それはすなわち、


夫「まあ俺たち、一応結婚しているんだけどさ、お互い不倫してもオッケーってことにしようぜ」

妻「ええ、いいわね。私もそのくらい自由にしたいと思っていたところなの」

夫「それじゃ、お互い不倫しても恨みっこなしということで」

妻「オーケー。契約成立ね」


といった具合である。


まあ実際にそのような夫婦がいるのかは知らないが、いても何らおかしくはない。

そしてこのような場合、「不倫」をしたという事実に私たちは「悪」を感じるだろうか?

少なくとも、「不倫」をされた相手はそれを感じないだろう。なぜならば「お互い不倫オーケー」という独自の「契約」を交わしているからである。「裏切られ、傷ついた」という感情にはならないと推測する。

ならば第三者である私たちはどうだろうか?状況を知ってさえいれば、おそらく私たちも同様に、「不倫」という行為を「裏切り、傷つける」行為とみなすことはなく、「悪」と感じないのではないだろうか。


「そもそもそんな契約を交わすこと自体がおかしい!そんなことするんだったらはやく離婚してしまえ!」

とは思うかもしれない。

なるほど、そもそもその独自の「契約」自体が「悪」ということか。確かにその意見は非常にごもっともなのだが、ここではこのベクトルでの批判はスルーさせていただくことにしよう。


結論とまとめ


ここまでの話を全てまとめた上で、出た結論はこうだ。


「不倫」という行為それ自体が「悪」であるとは限らない。

「相手を裏切り、傷つける」行為が「悪」である。

そしてほとんどの場合、「不倫」という行為は「相手を裏切り、傷つける」行為になり得る。

なので「不倫」という行為に私たちは「悪」を見出すのである。


いかがだろうか。この結論に誤りはないだろうか。もし誤りがあると感じたならば、是非ともご意見を頂きたい。


そしてここで述べた結論に従って、さらにひとつ述べたいことがある。

私たちは誰かが不倫をしたというニュースを耳にしたからといって、脊髄反射的にその人を叩くことはしないほうが良いのではないか?ということだ。

不倫をした人を叩くことの是非はここでは置いておくとして、あくまでも叩くのは相手がそれによって傷心していると言うことがわかってからの方がよいのではないだろうか?


もちろん、不倫という行為そのものを容認しているわけでも、不倫をした人を擁護するわけでもない。絶対に叩くなと言っているわけでもない。

しかし、おおよそこのようなケースにおいて、「人を叩く」という行為は「悪」を罰したいという「正義」に基づいて行われているものが多いだろう。

「正義」の刃を振りかざして良いのは、その振りかざす先にあるものが「悪」であるという前提が必要だと私は感じている。

そして振りかざす先にあるものが「悪」であるかどうか不明な段階においては、このようなケースのみならず、全てのケースにおいて安易に「正義」の刃を振りかざすのは控えた方が良いのではないか、ということである。


少々飛躍した話になってしまったかもしれないが、本記事では「不倫」を「悪」とみなすメカニズムを解明し、「不倫」は果てして「悪」であるか?という問いに明確な回答を導き出した。


ここでは「ソクラテス式問答法」と「反例」を用いた「偽であることの証明」(高校数学1で習う内容でもある)を使用した。

世の中にある様々な「問い」をこのような方法で自分なりに導いてみると、いろいろと人生が楽しくなると思うので、ぜひやってみて頂きたい。

また、このようなプロセスを「教育」をテーマにして説明するなら、これこそが「探究的な学び」や「哲学対話(もしくはp4c)(1人でやっていることについては目を瞑って頂きたい)」であると言える。

ある1つの疑問をきっかけにして、「探究」によって幅広い分野の内容を学ぶきっかけになる。それが「生活に結びついた知識」となる。

これまた飛躍した主張になってしまっているかもしれないが、このような「探究」を学校に取り入れていくことが重要であるし、私自身もそう感じている。



私自身、これからも生活の中で生じた問いをもとに、「探究」を進めていきたいと思う。













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