わたしのなかのもやもやジェンダー

社会人になってからというもの、いわゆる””ジェンダー”的なものに触れることが格段に増えた。
学校でももちろんあったけれども、社会人となると成人していて皆働いてお金稼ぐし、そういった意味でも性別的役割みたいなのが生々しく感じることが多くなった。


日本のある程度安定した企業は、ほとんどが高度成長期やバブル期を乗り切ってきたと思う。昔から勤めてる人いわく、環境はとても変わったと聞くけれど(とくにたばこの習慣とか)慣習とか風土とかいったものはある種文化的であるので、なかなか根本の変化はしていないのでは、とよく思う。実感として。
教育がまずそうだよね。たぶん、いまだに国語の教科書では夏目漱石出てるんじゃないかな。一般的に”良い”とされてるものは基本的になんでも引き継いでいく。引き継ぐということは、システム化されるようなものだ。再生産というハンディキャップがある。


そして実体験としてのジェンダー意識とともに、広告や報道、エンタメといったマスメディアからの表現も、さらにそういった文化を強化しているように思える。

そして実体験としてのジェンダー意識とともに、広告や報道、エンタメといったマスメディアからの表現も、さらにそういった文化を強化しているように思える。
マスメディアによる表現でジェンダーが生まれるのか、そもそもジェンダー風土があってマスメディアによって一層再生産されるのか、卵が先か鶏が先どちらかははっきりとわからないけど、要はそういう悪循環が相互にさようして繰り返され続けているっていうのがしっくりくるかしら・・・と思う。

”マスメディアの描く女性像には,社会が期待する,女性についての規範が表現 されている。メディアが男性によって支配されているとき,メディアの描く女性 像は,男から女への要求と期待の表現といえる。女性たちは,多少ともメディア を参考に,自分の生き方や物の見方をつくっていくから,メディアの描く女性像 は,「現実」の女性像にもなっていく。このメディアを介しての,男性による女 性操作の構造と,メディアの描く女性像の性差別的な性格を暴き出すことが,フェ ミニズムによる批判の出発点であった。 もちろん,メディアが一方的に女性を操作するわけではない。特にカルチュラ ル・スタディーズは,メディアが,規範として期待される女性像と女性自身の現 実や希望とが,妥協したり拮抗したりする綱引きの場であることに注目してきた。 そのため,現実の女性たちの動向に敏感であらざるをえない,女性雑誌などの女 性文化が重要な分析対象となった(井上 1995:2-3)”

下記<参考①>

上記の参考①を読んだときとてもしっくりきた。
とくに私の場合、最近経験したことだとある少年漫画を読んでヒロインに虫唾がはしってしまった。その表現とされるところは、女性的な部分の誇張表現であったり、あえて女らしくないということを強調されたりで、違和感を感じた。
そしてミソジニーを感じた自分の心の狭さとエンタメを楽しめない自分に少し悲しくなった。

あととりわけ広告に関しても反応してしまった。
ユニクロの綾瀬はるかのCM。綾瀬はるかといえば、清純な雰囲気とセクシーな体型を持っている。やたらと彼女がいかにかわいくて素敵か、というような下着(ブラトップ)のCM。印象として、すごくむっつりスケベなおじさん視点だなと感じてしまって・・・
あのCM流れるたびにイラっとした。

CMといえば、最近のauのCM。
もともと携帯電話のCMについては、ソフトバンクをはじめ妙に”家族”を意識させる表現が多いようにも思ってた。ソフトバンクのCMなんか多様性なようでめっちゃステレオタイプ入ってるよね・・・
犬がお父さん、兄がアメリカンアフリカンっていうので面白さを演出してるんだろうけど、妻はいかにも良妻賢母で娘もかわいらしい上戸彩。なんで女性はちゃんとした感じなの??

auのCMの話に戻る。
もともとおとぎ話がベースなのは別に良いとして。
最新のCMで、はあ?となった。田中みな実演じる、”鬼嫁”なる存在の登場。
またここで”かわいらしいけど怖い女”というジェンダー観を感じてしまった・・・

で。何に反応してしまったんだろうと考えてると、そもそも”鬼嫁”という言葉自体がかなり差別的だなあと思った。

鬼嫁の対義語ってなんだろう。ぱっと思いついたのは”亭主関白”。
この二つの言葉をちょっと比べてみた。
”非常におそろしい嫁、鬼のような嫁といった意味の語。ふつう夫の立場にある者が用い表現。”
対して亭主関白とは。以下Weblio辞書。
亭主関白(ていしゅかんぱく)とは、家庭内(とりわけ夫婦間)で、夫(亭主)が支配的な立場におり妻を服従させているような状況、あるいは、夫が家庭内で威張り散らしている状況を指す言葉夫婦間の力関係が夫に著しく偏っているさま、妻が夫に口答え意見言えないさま。

対義語は「かかあ天下」である。
対義語はかかあ天下なんだね。たしかに亭主関白は状況を表している。ちなみにかかあ天下のWeblio辞書の意味は、下記。
“一家の中で妻が夫よりも強い権力を振るっていること。⇔亭主関白。”
鬼嫁に対する対義語ってなんだろう。鬼夫なんて聞いたことない。鬼嫁は“鬼のような嫁”ということだけど、結構な差別表現じゃないかと思っちゃう。
鬼=人外であるわけで、おそろしい、人を食らう化け物。穏やかな存在ではない。夫にとっておそろしいとはどういうことだろう。怒ったら厳しいとか?
かかあ天下もなかなかジェンダーだよね・・“亭主”が威厳ある言葉であるのに対し“かかあ”は少し馬鹿にしたような感じ。しかも意味を見ると、“夫よりも強い権力”と書かれていて違和感。ということは夫が強い権力を持つことのほうが一般的という意味が含まれてる気がする。
亭主関白は“亭主”も“関白”もえらい立場の表現。妻を服従させている、夫が支配的な立場という書かれ方をされてて、権力ある社会的地位表現を家庭内にあてはめている。
う~ん。うまく考えをまとめれないんだけど、こういう言葉に人々が持つ無意識な偏見を感じてしまって。
だからあのauの新しいCMのネタがとても男性目線だなあと思った。ほかにも乙姫がキャバ嬢のようなキャラクターだったりするのも、女性人気の高いかっこいい系女優の菜々緒だからなんとなく受け入れてたけど、正直ギャグとしては男は面白いかもしれんけど、別におもしろくないよ・・・
 
なんかあっちいったりこっちいったり思考だから、また戻ってしまうんだけど、“マスメディアにおける女性像”を受け入れがたいことが意外と多いなあ。私の度量が狭いのか、マスメディア自体の意識が低いのか…
 
あと余談。というかこれもまた結局はじめのほうの話に戻るかな?いわゆる昭和系企業に勤めているとすごく感じるのが、スポーツの存在感の大きさ。私個人はスポーツ観戦にはあまり興味ないほうで。漫画とかでしか見なかったんだけど、会社に入ってからスポーツの大衆娯楽としてだけでない社会的地位の高さにちょっとしたカルチャーショックを受けてた。

スポーツ部員出身者の多いことなんたるや。。そして同じスポーツをやっているというだけで一気に距離が近くなってる。マネージャー、トレーナー経験の女子社員の人もちらほらいた。そしてそういったお方々と私は相性があまり良くなかった。“気の利く器量の良い女子社員”という多分会社で大いに求められる役割に嫌悪感すら感じてた。今でも正直感じてる。その違和感が気持ち悪さになり、もしかしたら私が病気になって会社に行けなくなった理由の一つかもしれないな。ついでだから以下、引用しておこう。
 

”しかし,70 年代になると,この種の女性への応援歌は影をひそめる.そして「女子マネージャーが 男性スポーツ集団のなかで雑用的な仕事を一手に引き受け,それが男子運動部において重要な役割を 果たす」ことが注目され,マネージャーは女性がやるべき仕事として一気に肯定されるようになるの だ.この時期,スポーツの世界で「男性を支える女性」「男性を癒す女性」というイデオロギーが生ま れ,ジェンダーに加えてセクシュアリティが重大な要素として登場したと高井氏は指摘する.時期を 同じくして,少女マンガは女子マネージャーを世話役的,専業主婦的な「母性」の表象として描き,80 年代以降の少年マンガは女子マネージャーをめぐる異性愛とホモソーシャルを美化する世界を提示した”

下記<参考②>

これも結局メディアにつながってるね。ということは、いかに私たちが持つ思い込みやイメージというものが一時代的に発生したマスメディアにより表現され固定化されていったか。その価値観に疑問を持たず、気づくことすらできず、考えなかったのか。
 
最近、凄くメディアの報道や表現に関して考えさせられる機会が増えている。自分からアクセスしないと発見できない情報や、逆にただ垂れ流しにされている反乱した情報で自分の行動や気持ちに影響を与えるか。
 
何が書きたいかまたわからんくなったけど、なんせ頭の中がごちゃごちゃするので一旦整理するためにノートにつづってみた。
いろいろ自分の中に問題を抱えていると自覚しているので、その問題を吐き出すための一つの方法かもしれない。まだまだ問題あるので、いったんこれにて終わる。



<参考>
「女性とメディア」研究から「ジェンダーとメディア」研究へ (jst.go.jp)
高井昌吏著 「女子マネージャーの誕生とメディア」 (jst.go.jp)
ミソジニーはなくせるか (jst.go.jp)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?