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冬沢こたつの短歌と背景 part.5

自作短歌の紹介・解説記事第五弾です。

11月は「毎日必ず短歌をつくる」を目標にしていましたが、
12月からは「テーマ詠ができるようにする」ことを目標として、うたの日に参加するようになりました。

また、「バンドマン短歌」の企画を動かし始めたこともあり、あまり数は詠んでいないです。(特に発表した短歌は少なかった)

自分は数打たないと質が伴わないタイプ、もしくは未だその状態だなあと思ったので、またポンポン作るようにしていきたいな〜

寄りかかる壁のメニューに撫でられた…

寄りかかる壁のメニューに撫でられた頭 むりせず、いってらっしゃい

大学の頃の友達と、4年ぶりくらいに連絡を取って通算2度目のお食事をしました。(こういう場合の「(友達と)遊ぶこと」って、なんて名詞?)

その友達も俺も同じ軽音楽サークルに入っていたものの、お互い一匹狼的な動き方をしていたため、在学中はあまり関わりがなかったんですよね。
一度しかしっかり話したことはなかったけど、彼女は文化、特に詩に対しての感受性がとても高くて、とても尊敬していまして。
ちょうど短歌を始めたところだったので、その話がしっかりできる人、という点でも適任でした。

喫茶店で近況を報告しあって、でっかいモフモフの蛾の写真を見せてもらったりして。
短歌の話をしたら自分も作ってみたいというので、その場で「喫茶店」のテーマ詠をしたりと、彼女のそういう興味関心と行動力を改めて実感したいい日だったんですよね。素敵な人と言葉を交わすのは本当に精神衛生にいい…

喋っている途中、壁にもたれかかる彼女の頭が壁に貼り付けられたメニューに引っかかってしまうことがあって、「なんだか短歌っぽいね」「じゃあこの光景を短歌にしてよ」という話になりまして、標題の短歌はそのくだりのことを詠んだものです。

これから用事に向かう彼女のことを、喫茶店が「頑張ってね〜」と送り出しているように見えて微笑ましかったなあ。

帰り道、この短歌を彼女に送っている自分を俯瞰で見て、「むしろこうやって人に短歌を贈っている状況のが短歌っぽいな」みたいなことを考えながら、短歌を始めて良かったと実感したのでした。

思い出の中の桜はまっしろで…

思い出の中の桜はまっしろで絵文字にはない枝葉があった

こちらも久しく会っていない友達に個人的に贈った短歌。

公に発表するのも野暮だなあと思ったのですが、すごく気に入っている短歌なので備忘録として書いておきます。

桜って、いざ本物を見てみると毎度思っていたより白くて、ピンクのイメージってなんだったの?ってなるんですよね。
むしろ白い花びらが少し紅潮しているあの慎ましさが綺麗なのに、絵文字の桜は真っピンクでなんだかなあと思ったりします。

あと桜って草花じゃなくて結局は木じゃないですか。実際に桜と対面するとどうしても見上げることになるし、花びらというよりはあの大きさに対しての印象の方が大きくて。しっかりと根を張って力強く伸びる幹に沢山の枝葉。花びらでないところもちゃんと桜の魅力だし本質なのになあと思って書いた短歌です。

絵文字のように誇張されてアイコンとなったそれと、実際のそれに対してのギャップは人に対しても同じように思うことで、
他人を一言で言い表してしまう機会もあるけれど、ちゃんとそれ以上のあなたを知っているよ、と友達として思っています。

雨降りで楽譜となった背もたれに…

雨降りで楽譜となった背もたれにあなたの残した旋律を見た

体調も安定はしないながらも良くなってきて、うちにいるだけじゃあ勿体無いと12月中はよく立川のまんがぱーくに足を運んでいました。

その建物の前に立川ゆかりのバンド「赤い公園」の赤いベンチがあり、バンドのファンとしては特別な場所でもあります。

その日は雨が降っていて、なんでせっかく休みなのにこんな雨の日まで頑張って外でてるんだろう、でも家にいる方がやるせないし…とブツブツ考えながら水たまりを避けて歩いていたところに、
ふとその赤いベンチが目に入ってきて、もう見慣れたそれに少し息を呑んでしまったんですよね。

雨ざらしのベンチの背もたれの部分に水滴ができていて、それが五線譜みたいに見えてすごく綺麗だったんです。
どうしても津野米咲の音楽と過ごした日々のことを思い出してしまって、なんだか言葉にするのも野暮だなあと思いながらも作った短歌です。

いつまでも好きな音楽家です。

立川のことを詠んだ短い連作と、実際のそのベンチの写真があるので添えておきます。

淀みにも季節があって鮮やかな…

淀みにも季節があって鮮やかな紅葉だったであろう塊

「常温の冬」という短い連作から。12月は本来なら休職期間が終わるはずだったタイミングだったのですが、経過があまり良くなかったため休職期間が延びてしまったのでした。

仕事をしなくても済むのは嬉しくもあるんだけど、やっぱり少し悔しくて、そういう気持ちを残しておこうと書いたものです。そちらの連作は随筆がセットになっているので、内容に関してはそちらを参照していただければいいかなと思います。

病気で休んでいる現状を個人的に「淀み」と表現することが多いののですが、短歌では詠んだことがなかったので使ってみました。
やっぱり自分は季節が好きで、2021年は病気のせいであまり季節を感じるイベントができなかったなあと寂しく思っていました。

「本当だったら今頃紅葉狩りにでも出向いていただろうになあ…」という気持ちがそのままこの短歌になっています。真っ黒になった"もみじだった塊"を想像して書きました。

赤く色付き成熟することと、腐っていってしまうことは、どちらも同じ流れの中にあって、
そういう通過点が「秋」なのかな、と最近自分の中で弱かった「秋観」が固まってきています。

あと、かたまりって漢字で書くとなんでこんな禍々しいんでしょうね。赤い公園が「塊」という曲を書いたのもわかる気がします。

この黒を薄めた先にある色は…

この黒を薄めた先にある色はきっと仄かに赤らんでいる

こちらも同じく「常温の冬」という短い連作から。

実際、先程の短歌とコンセプトは同じなんですが、こっちのほうが前向きなニュアンスがあり、その明暗の差が気に入っています。

これはチョコレートのアソートのパッケージの色が甘さの順に赤>茶色>黒となっていて、
そういえば"黒"って言っちゃうと無彩色だけど、わずかに彩度と色相を持っている黒もあるし、この黒だけを見て白黒の世界だと思ってしまうのは勿体無いな〜と思ったのがきっかけです。

「この黒の果てに鮮やかな色があって、極彩色の日々が待っていますように」という祈り。

余談ですが、「常温の冬」は4首とも、あと随筆も含めてかなり気に入っている文章なので、是非読んでいただきたいです。

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初回の記事と前回の記事はこちらです。

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