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子育てを悟ると同時に、IB教育の凄さを改めて認識した話

私はある日突然、子育ての最重要キーポイントを悟った。

ことは、最近日本から取り寄せた「日本の歴史」全巻が届いたことから始まった。夏休みよろしく、子供達とソファでゴロゴロしながら紀元前からの歴史を順番に読み進めていた時の事だった。

いやー色んな登場人物がいますねぇ、日本の歴史。当たり前か。もちろん個人の性格が文章として後世にまで残されている事は稀なので、大部分が歴史をわかりやすくするための脚色だという事はわかっている。しかし、それにしても「こいつは一生ママの言いなりのダメ野郎だな・・・」「こいつは責任感のカケラもないまま国を背負ってしまって、案の定大惨事だな」などと、お決まりのパターンも見えてくる。生まれながらに権力を持ち合わせた人物はたくさんいるが、それでも優秀だった人物と、ただただ翻弄されて一生を終えた人物がいる。この違いは何なのか。。

そんな時、歴史マンガの登場人物と、自分が過去出会ってきた人達に共通するポイント、更には、著名人のインタビュー記事などの数々が思い返され、その全てがピピピピーン!と繋がった瞬間があった。いわゆる「尊敬できる人間」「尊敬できない人間」を真っ二つに両断するキーポイント、さらに言えば子供に対しても垣間見える、「この子はすごい」と思える子に共通して存在するコアの要素が見えたのだ。

それは、本人の中に「使命」があるかどうかなのではないか。

偉人に必ず存在している、使命感

鎌倉幕府あたりを読んでいると、徳川家に生まれただけで日本全体を背負わなきゃいけないなんて、なんて重い人生なんだろうか!!!と思うし、明治時代に生きた偉人達の、日本発展への使命感が異常に強い。無事に帰って来られるかもわからない船に乗り込み、どうしても日本を発展させたいその意思はどこから湧くのだ。もちろん歴史に残るような彼女ら/彼らは群を抜いて使命感が強かったのだろうとはいえ、何も彼らレベルでなくても良いのだ。思い込みでも良いので、「自分は⚪︎⚪︎にならなければならない」「自分は⚪︎⚪︎をしなくてはならない」という任務が自分の中にあるかどうかが、その人を能動的に突き動かす原動力になるのだと思った。

「私は国を変えなければならない」
「医者にならなければならない」
「稼いで親に楽をさせなければならない」
「絶対親のようにはならない」
「不利な人が虐げられるのが耐え難く、許し難い」

そう、言い換えてしまえばこれは洗脳であり、呪縛でもあると思っている。冷静に考えれば昨今、しなきゃいけない事なんてごく僅かなのだが、そこに疑いの余地がないほど本人の思い込みが強くなると、それは使命となり、努力の原動力となる。現代の人間は満たされているからか、使命感がない人が大多数なのは一目瞭然だ。

使命の質はとても大事・・・

もちろん、先ほども述べたように、使命感は呪縛とも言え、思い込みでもある。その使命感はなんでも良いわけではなく、むしろ間違った使命感を背負ってしまうと、大惨事につながる。他人の幸せも平気で踏み躙るような使命感では戦争につながるし、独りよがりな使命だと、自分だけは幸せに生きながら多くの人を不幸に蹴落とすと言ったカルト集団を設立しかねない。使命の質には十分気をつけなければならない。

では、良い使命と出会えるようにするにはどうしたら良いのか。できれば世の中をより良い方向に牽引してくれる使命が良いし、できれば人生を通して捧げがいのある使命の方が良い。よくある「成績で1番をとる事」といったような使命感は、小さい時には有効かもしれないが、大学入学時点で方向を見失いがちなので、個人的には質が良くないと思っている。長い人生を、良い方向に向かって突き進みたくなるような目的であれば良い。できれば世界をより良くしたい、といった使命感だと最強なのだが・・・

・・・と、思った時に気づいたのだ。これって国際バカロレア教育じゃん。と。

世界の問題を認識することによる、自発的探究心の育成がIBの本質

国連は、地球を持続可能な世界にするために解決しなければならない17つのゴールを提唱している。それが我々が普段よく耳にする「SDGs」というやつだ。国際バカロレア教育(以下IB)では、それらの目標に対し、現状について学び、自分が何ができるかを考え、そして行動に移す、と言ったサイクルを以て教育が成り立っている。もちろん、小学生時点ではひよっこ状態なので先生の誘導は多いにあるが、5年生の終わりには割と立派なプロジェクトまで行うことになっている。

この過程で、小学生を卒業する頃には「世界をどうにかしなきゃいけない」と言う使命感が小さいながらも生まれるのだ。

たった1年半で変わった娘

そんな上手く行くかいな、と言う疑惑はごもっともだ。しかし、私にとって最も近しい例が、それを証明している。娘が、たった1年半のIB教育で変わったのだ。

娘は元々、自主性がお世辞にもあるとは言えず、親に言われて仕方なく宿題に取り組んだり、言われてもやったフリで通すような、割とどうしようもない状態であった。次から次へと降ってくる課題をどうにかこなすうちに、ただただ口を開けて待つだけの人間が出来上がりつつあった。これには学校側のカリキュラムにも問題があると考えたため、途中で現在のIB校へと転校した。

娘はたった1年半の間だが、IB教育を受けた。先生の誘導がありながらも、世界の問題について学び、自分の力でできることを行い、そしてそれを多くの人に対して発表を行うと言った貴重な経験を積んだ。親から見て誇らしい!・・・というのはもちろんなのだが、個人的に一番感動したのは、その後娘の意識がガラリと変わった事だったのだ。

今、娘が一番気になっている事が世界のエアクオリティ(空気の質)である。そのエアクオリティをよくするために、自分に何ができるか、何をしようか、と頭の片隅で考えるようになったのだ。日本の、宿題に追われるだけの生活では決して芽生えることのなかった思考回路だ。

もちろん、1人でできる事はまだ少ないが、彼女はIBの先輩達の背中を見ている。1人が多数に呼びかけ、呼応した人達が集まり、やがて学校中を巻き込んだチャリティイベントに発展し、そのイベントで集まったお金を公式な研究機関に寄付し、微力ながらも問題解決に対して力を添えた、という先輩達を見ている。そしてその第一歩なら小学生でもできる、という事も経験済みだ。日本の教育だけではどうしても会得できない。

なんでもかんでも海外と比べれば良いという訳ではないが、これに関してはどうしても日本教育の欠点が目立つ。日本の欠点など聞き飽きているし、聞いた所で私にはどうしようもない!という方はぜひここでそっとウィンドウを閉じていただきたい。

日本の教育に決定的に足りていない「責任感」

日本の小学校では、いかに偏差値を上げるか、いかに情報を飲み込むか、いかに良い点数を取るか、そこにばかり焦点が当たっていたように思う。同調圧力が強いのでそれでも落ちこぼれないように親が頑張らせるが、その勉強が何のためなのか、という事に関しては親を含め、誰もわからない状態だ。どう考えても、社会の問題と、教育とが断絶されすぎている。

日本の文科省のカリキュラムに沿って高校まで勉強し終えた所でどうだろうか。得た知識はたくさんあるが、何かの使命感は芽生えただろうか。社会で自分がすべきこと、したい事は見つかっただろうか。否、一切社会に繋がっていないように思う。大学は就職に有利となるブランドを目指し、「やりたい事」ベースではなく「できる/できない」ベースで大学と学部を選ぶ。就職時期になると使命感がないため、何をしたら良いかがわからず、今更になって「自分探し」「自己分析」を行う。探すべきは自分ではなく、使命なのだ。日本人に多い、使命なき「指示待ち人間」はこうして爆誕するのだろう。その後、会社に入って運よく使命に出会えれば良いが、出会えない人間は「なんのために・・・」と人生の目的を失いがちだ。

日本で理数系を選択する人間が少ないのはなぜか

先ほども触れたが、日本教育は高等学校にもなると、なぜ数学や理科を勉強しなければならないのかがわからないまま、高難易度の知識を詰め込まないといけない。モチベーションのない人間にとっては関係のない分野なので、たまたま理数科目が得意だった人間が理系を目指したり、就職を見越してなんとなく理数系を選ぶ、といったパターンが多いような気がする。

一方、IBの学校にいると、割と低学年から理科や数学がとても身近なもののように感じる。例えば先ほどのエアクオリティの例で言えば、空気中のどういった物質を減らし、どういった物質を増やすべきなのか、原因は何なのか、世界の人口とエアクオリティの関係は何なのか、といった興味を持つのが自然である。動機があるからこそ興味が湧くし、モチベーションが高い状態で勉強できるので、難解な化学に対しても学ぶ意欲が湧く。学べば学ぶほど世界の問題解決に近づいていくし、その先の進路として理数系の学部を目指す事はとても自然なことのように思える。

使命感がある国、ない国

話は少々逸れるが、東南アジアに住んでいると、様々な人種に出会う。個人で性格は全く異なるので一括りには語れないが、韓国、インド、中国は他の国と比べ努力家が多い上に、それを当然だと思っている節がある。わかりやすい例で言うと、韓国は「ライバル国に負けられない」という思想があり、最近ではライバル国に限らず、「韓国の力を世界に知らしめる」といった国単位での使命感が個人個人に浸透しているような感じがする。絶対に奴らより優秀になるぞ、と言う強いモチベーションを感じる。

そして東南アジアでは、逆の「使命感がない故にしょうもない」パターンもあるので紹介したい。

例えばマレーシアでは、マレー人保護のため、マレー系マレーシア人を優遇する法律がある(ブミプトラ政策)。特定の分野で会社を設立するには、必ず⚪︎%のマレー人を雇用することが義務化されているのだが・・・このマレー系マレー人男性達、、、ものすごーーくやる気がない。働かない。働きたくない。いやいや働く。それでも優遇政策のおかげで職にはあぶれない。でも努力はしたくないから、努力家の華人・インド人達に勝てない。高度な職に就けない。悪循環だ。

本来はマレー系民族と華人の落差を是正しようという目的で作られた法律だったが、動機づけが下手くそなのか何なのか、完全に逆効果となっている。どうせ何しても守られる、という緊張感と使命感のなさが、いかに人をダメにしてしまうかの良い例であるのではないか。これは個人レベルでも言えると思う。つまり、子供を守りすぎて育ててしまうと「誰かがどうにかしてくれる」という人間に育つことが見えてくるが、私は、これが私たちの子供世代全体に適用されるのではないか、と危惧している。

日本は少子高齢化の道を着実に進んでおり、いずれ企業はこぞって若者を奪い合うだろう。数が少ない若者は努力をしなくても、働き口には困らなくなり、より一層責任感が薄れ、、、という状況は、先ほどの優遇政策と似ていないだろうか。この少子高齢化がボンクラ製造期になる事を防ぐためにも、私はどうしたら子供に使命感が芽生えるのか、色々と試行錯誤して教育を続けたいと思う。

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