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おじいちゃんの遺言は、天皇賞の予想馬と母への伝言だった。

おじいちゃんが死んで5年経つ。

お盆なのでもしかしたら、ふらりとこちらに帰ってきてるかもしれないし、今後納骨されるとのことなので、おじいちゃんの最期を振り返りながら書いてみる。

おじいちゃんは胃がんで死んだ。食べることとお酒を飲むことが大好きで、豪快に笑う優しいおじいちゃんだった。

そんなおじいちゃんが胃がんで胃を摘出してからは、ご飯をほんの少し、ゆっくりと食べることしかできなくなってしまった。

余命1年と言われたものの、それから10年くらいは生きて、憎まれっ子は世にはばかるわねぇ、と親戚同士で笑いながら話すこともあった。

おじちゃんが危篤状態と病院から連絡を受けた時、すぐにお母さんと夜中の阪神高速を車でぶっ飛ばして向かった。多分、120キロくらいで走ったと思う。

お母さんはめちゃくちゃ泣いていたけれど、私は悲しさがあるものの実感がなくて、ラジオから流れてくる流行りの曲をなんとなく聞き流しながら、冷静を保っていた。

病院に着くとベッドに横たわるおじいちゃんの周りには親戚がずらりと並んでいて、時々誰かが鼻をぐすん、と鳴らしながら「頑張れー頑張れー」とおじいちゃんを励ましていた。

おじいちゃんは時々目を開けて、小さな声で「心配ないよ、いつものことや」と言っていた。

お母さんはぷるぷる震えていて、私はお母さんの背中をさすることしかできなかった。

おじいちゃんがすごく何か言いたそうな顔で私を見たので、お母さんをさする手を止めて、人工呼吸器をつけたおじいちゃんの口元に耳を当てると

「あのな、今度の天皇賞は5番と7番と12番や。おじいちゃんの代わりにこうといて」

と言った。

入院してからというもの、おじいちゃんはすっかり競馬にはまっていたから、薄れる意識の中で、確実にくると思った馬番を教えてくれた。(ちなみに購入したが、外れた)

三連単で買っておくね、と笑いながら答えると、おじいちゃんも少し笑っていた。まだ何か言いたそうだったので、もう一度おじいちゃんの口元に耳を近づけると、今度は

「お母さんに幸せになりなさいって、ゆーて」

と言った。

うん、と答えてお母さんをみると、お母さんは口パクで、なんて?と言った。

幸せになりなさいやって、と伝えたら、声をあげて泣いた。

・・・それから5分も経たぬ間に、おじいちゃんは「あちら側」へと行ってしまった。

このnoteで言いたいのは、つまりこうだ。

死ぬときに、幸せでいてほしいと願える人がいることは素晴らしい、ということ。そしてそれは、家族という歪な関係が生んだ奇跡だということ。

おじいちゃんが亡くなるとき、自分の娘の幸せを一番に願った。そして、それを孫の私に託した。

意識が薄れながらも、一生懸命に娘の幸せを願った。

おじいちゃんに言われるまでもなく、母を幸せにしたいとは思っていたけれど、おじいちゃんに念を押されたことで、強く背中を押された気がした。

幸せの定義もわからない。両親が離婚し、母親がひとりの女性として幸せを探すことに奔走していた時でさえ、私にはそれが幸せなのかもわからなかった。(結果、再婚することになった)

親が子を幸せにすることも、子が親を幸せにすることもまた難しい。

きっと家族が家族でいることはすごく難しい。
一番身近な人間関係で、だからこそ難しい。

そんな難しい人間関係を続けた結果、おじいちゃんから娘の母へ、母から孫の私へとストーリーは引き継がれ、有り難く今日も人生を生きている。

おじいちゃんが他界しても尚、私はおじいちゃんをちゃんと記憶している。いろんな思い出があったはずだけど、最後の会話だけはこんなにもちゃんと記憶している。

「お盆」という日本の文化は、またこんな話をついつい思い出して故人に想いを馳せるために、きっとあるのだと思う。


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