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ケイゴ・オーバーフィッティング

 9月2日 月曜日

 始業式。校長先生の話が長すぎるので、こっそり昔の書物を読んでいた。そしたら、ぼくが生まれるずっとずっと前に生きていた人が「最近の日本人は敬語をうまく使えない」と主張している記録が見つかって、思わず大笑いしそうになったよ。きっと彼の主張は今の日本でもそっくりそのまま通用するだろうね。まあ、この数百年という長い年月を「最近」の一語で表すのが適切なのかは、ぼくにはよくわからないけれど。

 国語の授業で聞いた話によると、日本人が敬語の使用を人工知能に任せ始めたのは、だいたい21世紀前半のことだったんだって。その発端は、メールの文章を適切な敬語に自動で加工するソフトウェアが開発されたことらしい。ぼくにとっては、むしろその機能が存在しなかった時代の方が信じられない。文章を飾り付けるという生産性のカケラもない行為のためにわざわざ脳ミソを働かせるなんて、なんとも無駄の多いことだよね。

 それから何十年も経って、コンピューターと脳ミソの間で直接データをやりとりできるようになると、敬語化ソフトは全日本人の頭の中にデフォルトで組み込まれるようになった。発話のための電気信号を送る脳ミソと、信号を受け取る口や舌や喉の筋肉の間にコンピューターが挟まって、電気信号自体を自動で書き換えてくれるようになったんだ。もちろん言葉を聞き取るときにも同じようなプロセスが存在して、耳から入った言葉を「脱敬」してくれる。それはつまり、日本人の認識から敬語を完全に消滅させるということだ。そんなことをするくらいなら敬語という仕組み自体を消し去ればよかったんじゃないかと、今を生きるぼくは思ったりもするけれど、たぶんその時代のお年寄りに「敬語をなくすなんてけしからん」って怒られて、仕方なく残すことにしたんだろうね。もともと形式的な意味しか持ち合わせていない敬語は、そうやって誰からも認識されないようになったところで何も問題なかったみたいだ。だってほら、現にぼくたちだって、ほとんど苦労していない。

 ただ最近、ひとつの大きな問題が発見された。敬語という表現の責任を丸ごと預けられていた人工知能は、どうやらぼくたちの知らない間に、その用法を極度に複雑化してしまっているようなんだ。専門家によると、現在の日本で人工知能が用いる敬語の語彙は21世紀の約1000倍にも達していて、平均して発言のうちの8割の時間が敬語表現に費やされていると推定されるらしい。でもそれを知ったところで、生まれた瞬間から脳を人工知能と共有しているぼくたちにはどうしようもないよね。「これはペンです」と言おうとするときにぼくの口から発せられる約40の音節のうち、どの部分が敬語表現でどの部分が「これはペンです」という意味なのかなんて、どの人間も知りはしないんだから。

 まあ、きょうびコミュニケーションはデータを直接脳内に送るのが主流になっているから、この問題はこれからも社会全体にとってはほとんど脅威にはならないはず。影響があるとすれば、いまだに残る儀礼的な場面での音声コミュニケーションが、無駄に長い時間を必要としてしまうことぐらいかな。例えばそう、ぼくが今朝聞いていた、校長先生の話とかね。

 それじゃ、今日はこのくらいで。おやすみなさい。