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ガラスのハイヒール

 こんな初夢を見た。

 ……と書き出せたらよかったのだが、元日の夜は眠りが深かったようで、少しも夢を見なかった。実家に帰った安心感のせいだろうか。いや、大晦日の夜更かしと元旦の初詣の影響で睡眠不足になっていたので、単にそれが原因だろう。家族が嫌いなわけではないが、自分の部屋がいつのまにか父親のゴルフクラブでいっぱいになっている状況では、安心感は感じづらい。

 いまさらこんなあるあるを言うのも恥ずかしいが、やはり、帰省したら暇で暇で仕方がない。三が日が過ぎた頃には暇つぶしに買った本も読み終わり、お菓子も端から端まで食べ尽くしてしまったので、正月太りに対するせめてもの抵抗としてぶらぶらと散歩していた。僕の生まれ育った地域はザ・地方都市の郊外といった雰囲気で、特段見るべきものもないから、どうしても俯きがちに歩くことになる。そうすると突然視界に犬の糞が飛び込んでくることがあって、そのたびに僕はスニーカーを汚さないように慌ててジャンプする。ジャンプしながら、ハイヒールのことを考える。

 一説によると、ハイヒールの起源は中世ヨーロッパにあり、その目的は路面に捨てられた汚物を避けるためだったという。この話を初めて聞いた時には、その不潔極まりない用途とハイヒールの華麗な印象とが結び付かず驚いたが、言われてみればあの形状は地面を踏まないことに特化していて、確かにそうなのだろうと納得させられた。時代が進んで下水道が整備され、スニーカーでも問題なく街を歩けるようになった現代には、ハイヒールは主に女性のファッションとして不動の地位を確立していて、その本来の目的はすっかり忘れ去られている。道行く女性に「糞尿避けですか?」などと声を掛けたら、きっとピンヒールの先端で目玉をくり抜かれることになるだろう。

 このハイヒールの話は単なる雑学だから覚えていても何の得もないのだが、僕はかなり気に入っている。汚いものを踏まないための防衛手段でしかなかった靴がその美しさを評価され、ファッションアイテムとして愛されるようになったという事実が、なんだかとても素敵なことであるように思えるのだ。大袈裟な言い方をすれば、ハイヒールは僕に勇気を与えてくれる。

 糞まみれの人生で傷つきそうになったとき、僕はいつも自分に言い聞かせる。ハイヒールを履こう。ハイヒールを履いて、汚い地面から逃げながら笑って、ランウェイを歩くように胸を張っていよう。その不安定な足取りが、その背伸びの高さが、そのまま美しく見える日が来るかもしれないから、それまでは不器用に自分を守りながら歩くのだ。

 2024年はきっと、僕にとって嫌なことが特に多い一年になる。だから今年の目標は「余裕なふりして進むこと」だ。それはただの強がりだと言われたって気にしないことにする。だってハイヒールは、背伸びするための靴なのだから。

 これは決意であり、願望であり、祈りであり、根拠のない確信でもある。そういったものをすべてひっくるめて夢と呼ぶのだとしたら、正月だろうとそうでなかろうと、僕はずっと、こんな夢を見ている。