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お母さんを「推し」ている話

こんなことを言ったら、「どうした?」と心配されること間違いなしだろう。

私は自分の母親の限界オタクである。

限界オタクとは、痛々しさ、言語力などが限界を迎えたオタクを指す言葉である。(ニコニコ大百科より)

別に母親は取り立てて美人とか若いとかそういう訳ではない。年齢も60を超えている。

でも私はあらゆる面で、お母さんを「推して」いるのだ。

一挙手一投足が見逃せない

私の母親は、対外的にはかなり非社交的だ。

愛想がないという訳ではないが、積極的に交流することはしない。基本ずっと家にいる。

隣人たちからは「素性の見えない人」と思われているだろう。

しかし家の中では、常に不可解な挙動をしている。

私が外から帰ってきたと思えば謎の創作ダンスをしながら迎えるし、目が合えば変顔を見せつけてくる。

これがだんだんとハマってしまうのだ。

気づけばお母さんに対して「可愛い」「推し」という感情を抱いていた。

お母さんを「推す」のは最高

自分の母親を「推す」とはどういうことか。

もちろん母親は芸能活動もしていない一般人なので、一日中家にいる。

それはつまり、「推し」とずっとひとつ屋根の下なのだ。(限界思考)

それだけではない。

推しと話し放題だし(握手会無限ループ状態)、投げ銭をすればプラットフォームに手数料を引かれることなく全額が推しに渡る。(受け取られたことはないが)

プレゼントももちろん手渡し。事務所のチェックなどラグはないし、受け取った時のリアクションも見れる。

チェキ(写真)も撮らせてもらえる(単体の写真は嫌がられるか、ツーショットならOK)。

…ここは極楽浄土か?

精神衛生にかなり良い「推し活」

「推し活」は、重たくなってくると病んだりする人も多い。

精神を病むくらいなら、推しててしんどくならない推しを見つけることが重要である。

そういう意味でも、自分の母親を推す「推し活」は非常に理にかなっている。

時々塩対応されるほかは不満に思うことは見つからないし、同担のマナー・民度などに杞憂しなくて済むからだ(自分ひとりしか推してないし)。

別に家族じゃなくても良い。

周りにいる知人を推してみよう。(不審がられない程度に)


「推す」ということは、「良いところを見つける」こととも深くリンクしている。

人の悪いところばかり目につくという人は、思いきって周りの人を「推し」てみよう。

推しは多ければ多いほどいい。DD(誰でも大好き)上等である。


いつもと変わらない日々が、ちょっと楽しくなるかもしれない。

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