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なぜうつ状態になってしまったのか 【原因・結果編】

おいとま開始から、ちょうど1週間が経過した。

のんびりゆるりと過ごす中で、どうしてこんなうつっぽい状態になってしまったのか、自分の中で整理がついてきた。
私のような大学院生だけではなく、広く一般にも共通する部分もあるだろうから、ここに記しておこうと思った。

前提:私について
・職業:大学院生(博士後期課程)
・分野:社会科学(一応文系)
・人間関係:大学院関係は極めて良好(研究環境や指導教官への不満は一切ない)
・経緯:1週間ほど前に、恋人に「うつだよ、とにかく休め」と言われて、休んでいる。(病院・カウンセリングなどは未受診)

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最大の原因:人と比べすぎて、自分で自分を認めてあげられなかった

大学院(の博士課程)というところにいる多くの人たちは、私も含めて、各分野の”研究者”を目指している。

この”研究者”というのは、基本的には、新しい何かを発見して、それをいろいろなところで発表して意見をもらいつつ、論文としてその新しい何かを書いていくお仕事だ。
で、博士課程の大学院生は、その研究者のたまごとして、やっぱり新しい何かを見つけようと奮闘して、発表して、論文を書いている。

分野や取り組み方によるのだけれど、このお仕事は、”新しい何かを見つけた・論文を書いた”という、とっても大きな成果は見えやすい。その一方で、”新しい何かを見つける・論文を書く”ための作業、つまり日常の研究活動においては、成果を感じにくいと思っていた。

「新しい何かを見つける」ための道筋は、長い。そして正解の道筋など、誰もわからない。だからこそ、1つの作業に対しての「できた!」という達成感や、物事を理解できたときの「わかった!」という喜びを大事に噛み締めていく必要がある。

また、本来、できないこと・わからないことが判明することは、決して悪いことじゃない。「できないこと・わからないことが”わかった”」のだから、着実に進んでいるのだ。全然進んでいないと自分を責める必要などなく、できない自分を認めて、次のステップ(じゃあこれを踏まえて何をしよう)に進めばいいだけなのだ。

そうして小さなステップを積み重ねていった自分を認めてあげて、適切に褒めてあげることが大事だ

のだけれど、私は十分にできなかった。人と比べてしまったためである

”劣等感”というものを強く持つようになったのは、大学院というものに入ってからだった。

数学大嫌いの典型的文系人間だったのに、数学も統計学も、なんなら物理学までバリバリ使う分野の大学院に、十分な基礎知識のないまま入学してしまった。そうして、修士時代、授業についていけず、とっても苦労した。

いろいろな人に助けられて、授業をクリアし、なんとか博士課程進学までこぎつけた。でも、「私は一番できないのだ」という意識は、そのまま残った。
自信もなく、ずっと自分の能力を疑って、できない・わからないことに出会っては、「なんでできないんだ」「なんでわからないんだ」と自分を責めていた。できない自分を見て落ち込み、自分を褒めることなどなかった。

一つ作業が終わっても、達成感に浸る余裕などなく、「早くみんなに追いつかなきゃ」と焦っていた。また、だいたい何かしら想定外の出来事が起きて、予定していた時間よりもかなりオーバーしてしまうため、できたとしても「こんなに時間がかかってしまった……」と落ち込んでしまっていた

こうして人と比べてしまい、焦って落ち込んだ結果、付随的に起こったことが3つある。

結果①考えることが疎かになった

人と比べて焦って落ち込んだ結果、十分に考えて作業するということを疎かにしていた

「早くみんなに追いつかなきゃ」と焦ってしまい、盲目的に、ただやみくもに目の前の作業を進めていってしまった。当然ミスも増えるし、人からのツッコミも多くなる。そうするとまた焦る。負のループ突入である。

結果②自分の理想といまやっていることのギャップに気づかなかった

ただ「作業をこなすこと」しか頭になかったため、自分の理想とする研究といまやっている研究にわずかな違いがあることに気づかなかった

うっすら、なんか違う気がする、と思いながらも、焦りの方が優先されて、作業を進めてしまった。

そうして、ずいぶん経って「あ、違う、こうじゃない」と気づいた時、ぷっつり切れてしまった。「自分は一体なにをやっていたのだろう」と、虚無感に苛まれた。めちゃくちゃストレスを抱えて、頑張って、何やっているんだろう、と。

結果③休むことが下手になった

「人よりもできない」「何もかも全然できていない」

そう思ってしまうと、もう休むことができない。

休日の朝、ごろごろしている時も、恋人とデートしている時も、友人と楽しく飲んでいる時も、「やらなきゃなのにな……」という焦燥感と、”できないくせにさぼっている”という罪悪感がつきまとう

もしそうした気持ちを抱かず、その時間を謳歌できたとしても、家に帰ってきてシャワーを浴びているときに、「さぼってしまった……」と罪悪感がでてくる。
いやいや息抜きも大事!と言い聞かせるも、それがさぼっていることへの正当化なのではないかという疑念は拭えず。十分に、手放しで休むことができなくなっていた

改善策は次のnoteに

こうして、人と比べては焦り、目の前の小さな成果に対して自分を褒めることができず、自信もどんどん失っていった。その結果、深く考えて行動することができなくなり、何のために頑張っているのかも見失い、落ち着いて休むこともできなくなり、どんどん気力・体力が削がれていった。そうして、おいとまをいただくに至ってしまったのではないかと思っている。

じゃあ、どうしたら良かったのか/これからどうしたらいいのか、は、長くなってしまったので、次のnote記事に。


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