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博士課程2年目を終えて

もう一皮、むけないとダメな気がする。もう一皮だと思うんだよな。なにか、まだ余地は残っていて、カチリとはまったら、抜け出せる気もする。


相棒のロルバーンノートに書かれた作業日記を、ぱらぱらと眺める。

2019年7月13日。
博士課程生活も2年目に突入したというのに、いまだに博士論文の主となる”問い”をうまく定められず、6月にあった分野全体の先生の前での発表もちっともうまくいかなかった。
いつもはやったことを記すだけなのに、ノートには長々と、いまの心情がつづられている。

やる気が出ずにぼーっとしていたら、xx(恋人)が「できたー!!」と言って、うちの方へうれしそうな顔をしてやってきた。なんか、できなかったことができたらしい。でも、なんか、証明はやり直しらしくて、まちがえたけど、新しいことが分かったってうれしがっていた。
それを見て、素直によろこべなかった。また差がつくって。
どうしてxxはできても、うまくいかなくても、こんなに楽しそうなんだろう。失敗しても笑っているんだろう。たぶん、とっても研究が好きなんだろう。

つい最近までは、こうやって、よくできる上に「研究楽しい!!!」な彼と自分を比較して落ち込み、彼のことを羨んでいた。

おまけに、いつもどこかで、「博士課程をやめようか」という迷いのようなものがあった。
そうしていつも、優秀で研究が大好きな恋人に夢を託すかのように、それを支えようと思うのだった。

私もxxのようになりたい。けど、こんな性格わるくなってしまうのなら、もうやめようかと思った。かなしかった。たいした努力もできなくて、やめる勇気もでなくて、性格もわるくて、自分大嫌いに思った。
なにはともあれ、xxは研究が大好きで、その邪魔をしてはならぬと思った。いきいきとして、たのしそうなのだから。


そうして、あれから10ヶ月ほどの月日が流れ。
あのときの「あと一皮だと思うんだよな」は、たぶん、正しかった。
自分で言うのもあれだけれど、一皮、むけた気がするのだ。

研究が、少しだけ、楽しくなった。自分で道を切り開いていくコツが、ほんのすこーしだけ、わかった。
恋人へのひがみは、まだちょっとあるけれど、でも随分となくなった。「好き!!!」だからこその苦難もあることも知った。
そして、自分の理想は他人に託さず、「自分の手で実現するのだ」という気力が、戻ってきた。

***

当時のことを今思うと、完全なる迷子だった。

「こうした方がいい」「かくあるべき」という”いろんな人の”価値観を持っていて、それらを”自分の”価値観に落とし込む前に、全て闇雲に守ろうとしていた。

知識がまだ足りていない中で、新しい領域に飛び込んでみたり、理論ばっかり勉強してきたからといきなりデータをいじってみたり。

焦っていろんなことに手を出して、いろんな人の意見も取捨選択せずに真面目に聞いて、結果、迷子になった。身動きが取れなくなってしまった。

そうして、5ヶ月後の11月22日。
”おいとま”として、一切の研究活動をお休みした
恋人と指導教官のおかげで2週間で戻ってきたとはいえ、復帰以降もつい最近まで、7月の日記のような気持ちが頭の中でくすぶっていた。

”一皮むけた”のは、「問い(につながる小さな問い)」を見つけられたことが大きい。

いろんな人の価値観や理想に縛られすぎず、「こうなんじゃないかなあ」「こういうこと、あるかなあ」という漠然とした小さな問いを立てて、それを確かめてみる。

その問いは、いわゆる”リサーチ・クエスチョン”のようなかっちりとしたものじゃなくてもいい。自分の中のゆるい疑問を、実際に手を動かして、(ゆるく)確かめてみる。それでダメな時もあるし、「あれ、こうなんじゃないか」って新たな問いの種が見つかったりする時もある。

何にもやらない限りは、何にも始まらない。
迷子状態から抜け出すには、「あそこに道があるんじゃないか」「こっちに湖があるかもしれない」と、小さくて不確かでも”問い"(guessと言った方がいいのかもしれない)を立てて、真偽を確かめるべく歩き出さないといけない。
はじめから完璧な問いじゃなくても、よかったのだ。

その、小さくて不確かな”問い”を立てる際に、既存の知識や先行研究の読み込みが生かされる。だから、先行研究の背景や流れ、雰囲気を知っておくことは、すごく大事。

年が明けた1月27日。
「こういうことあるんじゃないかなあ」と漠然と立てた小さな問いが、ひとまず指導教官の目をクリアした。より深く分析してみることになった。

「これを確認するためには、こうしたらいいかな」「うーん、この結果だといまいちわからないから、こうしてみよう」
そうして、自分で研究の道筋を立てていくことに、面白みを感じるようになっていった。

もうひとつ。
一皮むけたのは、「経済学というものは社会を動かす力があるのだ」「そうして、自分の研究次第で、社会をよりよくできうるのだ」と、思えたから。

”経済学”で考えることのできる範囲は、とてつもなく広い。
経済学というものを通じて、経済社会をみるための、ひとつの視点を養うことができる。

専門として研究している、経済学の中の狭い分野についてだけじゃなくて。
広く社会全体の理解につながるような考え方が、たくさんあるんじゃないかなと思う。

そんなことを、この本を読んだり(まだ全然途中だけれど)、いろんな人と話をして、思った。

だから、優秀な恋人や他人に託すんじゃなくて、よりよい社会を築くお手伝いを自分の手でできるように、頑張るのだ。

だから、もう博士課程やめよう、なんて思わなくなった。
前進あるのみ。私は私の思ったことを、やっていくのだ。もちろん、いろんな人の手をありがたく借りて。

***

年度の終わりに、博士課程2年目のこの1年を振り返って。

お世辞にも出来がいいとはいえないけれど、この1年(というよりここ半年くらい)、やっぱり一皮むけたと思うのだ。
その理由を整理してみたけれど、でも、正直な気持ちとしては、なんでここまで経済学や研究というものへの見方が変わったのか、よくわからない。

上で述べたような”問い”への姿勢や、ティロールの本の影響はもちろんあるのだけれど。7月の私といまの私で、何の見方がどう違うのかは、うまく表せない。
でも、決定的に違うということだけはわかる。(一番近くでみている先輩でもある恋人も、そう言っている)


「きっと、そういうものだよ」と彼は笑う。
「この調子じゃあ、先生になった時に指導に困っちゃうね」と、私は苦笑いして返した。

うまく言葉にもできない、感覚的なものが増えていくのだとしても。
できる限り言葉の形に落とし込んで、整理して、人に伝えることができるようになりたいな、と思う。

博士課程もいよいよ3年目。
今年度は、どんな気づきや学びがあるのだろう。


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