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卒業の日

 「卒業生退場。在校生、保護者の皆様は起立して中央を向いてください」

大嫌いな体育教師である加藤の進行で全校が立ち上がった。もちろん、その後ろの保護者たちもだ。

「卒業生が退場します。拍手で送り出しましょう」

3年1組名簿番号1番の彼が動き出すと、同時にごく狭い体育館は拍手の渦に飲み込まれた。胸に花飾りをつけた生徒がポツポツと体育館中央の花道へ流れ出す。彼らの胸に差し込まれた花飾りは、とても輝いて見えた。私の左胸にも同じものが飾られているが、私のは多分、枯れている。
太陽に照らされた出口は、輝かしい未来への入り口に思えた。真っ直ぐ前だけを見て歩いている彼らは、その入り口にも堂々と歩いていく。
 皆が涙を流していた。心の奥底から、これまでの三年間を惜しむようにして。私からその涙は溢れてこなかった。

 左側に整列していた彼女が動き出し、私も花道を歩かなければならなくなった。回れ左をして雛壇から降りると、花道が目の前に広がった。右足と左足のどちらかに少し迷って、右足を前に出した。長かった三年間が終わる。
 私には眩しすぎるあの扉をくぐれば、終わってしまう。


 「皆さん、ご卒業おめでとうございます」

最後の教室で、私の大好きな谷崎先生の長い話が始まった。去年の今頃、中学生最後のクラス替えがあった。その頃、谷崎先生は教頭の座についていて、担任教員になることはないと思っていた。しかし、教員発表が行われた際、私のクラス担任に谷崎先生の名前が呼ばれた。私は思わず変な声を挙げ、全校生徒から注目を浴びたのを、今でもはっきりと覚えている。好きな人間の階級が降格したことに対し、喜びを表したのは、この世界中で私が初めてだろう。
 私の通う中学校は中高一貫校なので、ほとんどの生徒がこのまま高校に上がるはずだ。私を除いて。なぜなら、私はこのまま高校へは上がらずに、公立の田内高校に通うことになるからだ。理由はもちろん、目の前の谷崎先生の出身校だから。流石に本人に言うことはできないが。ストーカー認識をされてしまうのは、耐えられない。私としてもここまでするのはおかしいとわかっている。しかし、好きなのだから仕方がない。一つ、確かにしておきたいことがあるとすれば、これは決して恋愛的なものではない、と言うこと。谷崎先生のことは、一人の教師として好いているだけ。

 ふと、隣に座る彼を見た。どこかタジタジしていて、言葉によく詰まる彼。学校にいると、よく彼の視線を感じることがあった。それが嫌なわけではなかったし、嬉しいわけでもなかった。ただただ、見られている、それだけだった。いつも教室に一人で本を読んでいる彼は、赤瀬廉太郎といった。皆から除け者にされているような彼だったが、私は彼のことが嫌いにはなれなかった。

「これで、私たちはお別れです。皆さんの人生がどうか、良きものでありますに」

ようやく谷崎先生の話が終わった。話の終わりと同時に、私の長かった三年間は終わる。
 
あの長い話と共に、長い中学生が終わってしまった。


 昇降口で写真を撮った。兄二人と母親の3人が来ていて、知らない間に多くの写真を撮ったそうだ。

「優美ちゃん、じゃあねー!」

「うん、元気でね」

三年間、結局名前すら知ることもなかった彼女らから挨拶をされ、名前もしらないまま、明るく別れた。

「ゆ、ゆ、ゆゆ、優美さん……!」

 突然、背後から声がして振り向くと、そこには猫背で小さくなった彼がいた。背筋を伸ばせば私より高くなる身長が、今は私よりも低い。

この姿を前にも見たことがある。体育の授業でキャンプファイアーの練習を取り扱った、あの一ヶ月間だ。

 フォークダンスをすることになり、それぞれがペアを組んだ。コミュニケーション能力の低い私は、最後まで残ってしまった。
周りを見渡すと、彼がいて私から声をかけた。彼は快く受け入れてくれた。相変わらずタジタジとはしていたが。

 初めは手すら繋げなかった。一番最初の授業、周りはキャーキャー騒ぎながらも男女で手を繋ぎ始めた中、私たちのペアは一向に手を繋げなかった。私が両手を差し出し、彼がそれを取るのを待った。私がこの体制をとると、彼は余計にオドオドとし、手を出したり引っ込めたりしていた。私は、そんな彼に小動物のような可愛らしさを感じた。この時間なら、いつまでも続けばいいと思った。しかし、そんな時間は数十分とは続かなかった。私の嫌いな加藤が打ち壊したのだ。

「何してんだお前ら、手ぐらいさっさと握れ」

そう言って、加藤は彼の手を掴み、無理やり私の手に握りつけた。彼の柔らかな手が、加藤のゴツゴツとした手によって私の手のひらへと重なった。柔らかな感触以上に伝わるゴツゴツとした感触がものすごく不快だった。
加藤が立ち去ってしばらくすると、私の手のひらをジメッとした生温かい感触が襲った。彼の手が震え始め、それはすぐに全身へと広がった。彼は私の手から滑り落ちた。膝から崩れ落ち、呼吸が荒くなる。背中を丸め、小動物のような可愛さを放っていた彼は、体育館の床に蹲り、喉元を抑え、大きく肩を震わせ、苦しんだ。
私にできたことは、自身の膝に彼の頭を乗せ、背中をさすり、呼吸速度を連呼することだけだった。

「ゆっくりと吐いて。1、2、3、4、5、ゆっくり吐いて…」

 加藤は駆けつけたが、なぜこうなったのか理解ができなかっただろう。確か、携帯電話を取り出し、誰かに連絡をしていたはずだ。

 少しすると、彼の呼吸は落ち着き、そこに保健課の教員が飛んできた。落ち着いた彼を見て胸を撫で下ろした彼女は、

「ありがとう。あなたのおかげね」

私にそう呟き、背中を撫でた。私にはこの感謝の意味がわからなかった。

 保健室には私もついて行った。体育館で一人、フォークダンスの練習をするのは流石に気が引けた。彼をベッドに寝かせ、私はその横についた。茫然と天井を見つめる彼を見ていると、なぜか彼がより小さく見えた。寂しそうで、悲しそうだった。

「ご、ごめん、優美さん……」

彼の唇が動いて、微かにそう聞こえた。

「ううん」

私は小さく顔を横にふった。なぜ謝られたのか、わからなかった。
ただ、沈黙が私たちの間を流れていた。

 その日の帰り、私は彼に声をかけた。帰りの電車も、バスも、同じだから。私からの申し出に目を見開いて驚いた彼は、ゆっくりとうなずいた。

それからキャンプまでの一ヶ月間の帰りは、二人一緒だった。私自身、一緒に帰る友達もいないので嬉しかった。帰り道では、学校のこと、彼の好きな歴史のこと、いろいろ話した。
 1日目はほとんど続かなかった会話も、3、4日もすれば、電車とバスの時間だけでは足りなくなってしまった。彼が言葉に詰まるのは吃音による物だとも、緊張すると過呼吸を起こしてしまうも、この時に聞かされた。私は気にも留めなかった。
気がつけば、手を繋いで踊れるようになっていた。


 キャンプの日、キャンプファイヤーを終えると、彼は何かを話したそうにしていたのに、何も話さなかった。私は、他の友達と話すことしかできなかった。

 キャンプが終われば、一緒に帰らなくなった。彼が逃げるように先に教室を出てしまうから。気になったのに、私は何もしなかった。
それから話すことはなくなったが、彼のことはずっと気になっていた。


 今、その彼が目の前にいる。初めてフォークダンスの練習をしたその日のように縮こまって、両手で拳を作り、タジタジとしている。私はあの時と同じ、小動物のような可愛らしさを感じた。

「どうしたの?」

私の問いかけに対し、彼は上目遣いに私を見つめ、再び地面に視線を落とした。向かい合う二人に興味を抱いたのか、周りの生徒、保護者、教師が野次馬のように集まった。縮こまった彼を不審に思うささやきが聞こえてきた。このささやきは彼にも伝わったのか、手が小刻みに震え出している。こんな状況でも、彼のことを可愛いと思ってしまう私は少しおかしいのかもしれない、そう思った。

「ゆ、ゆゆ、優美さん!」

彼の唇が再び動き出した。視線は地面に落としたままで、小刻みに震えながら、喉から声を絞り出す。

「ぼ、僕と付き合ってください!」

突然の告白に、周囲が一斉に騒めいた。あんな奴と付き合うわけないだろう、そんな声が聞こえた。勢いよく右手を突き出し、体を折り曲げた体勢には、正直驚いた。漫画の中だけだと思っていたから。何の返事もしないまま、春の風が私たちの間を流れた。しばらくすると、またも彼は体を折り曲げたまま私のことを上目遣いに見つめた。今度は真っ直ぐに、目を離さなかった。返事をするべきか、わからなかった。でも、嬉しかった。しかし、この喜びが、恋愛的な物なのか、友人としてなのか、ただ単に他人に好かれていることを認識できたからなのかも、わからなかった。ただただ、私自身が彼に抱いている感情の正体、それがわからなかった。
 こうしている間にも、周囲の野次馬は彼を囃し立てた。

「赤瀬!お前みたいな奴、無理に決まってんだろ!」

「優美ちゃん!赤瀬はやめなって」

 全ての言葉に悪意を感じた。彼の視線が地面に向き、突き出していた右手も下がった。折り曲げた体を真っ直ぐに戻したところで、彼は私に真っ直ぐと向き直った。初めて、彼が私の目を見下ろした。これまで一度も見たことのないほど真っ直ぐで、熱い眼差しだった。大きく息を吸った彼は、

「僕は、優美さんの笑顔が好きです。真面目なところが好きです。相手を思いやることのできる優しさが好きです。給食を食べる時、毎日いただきますとごちそうさまを言えるところが好きです。掃除の時、みんなのために隅々まで一生懸命取り組む姿が好きです。好きな先生が担任になって、変な声を出す程喜ぶ姿が好きです。何事にも真剣に取り組む姿が好きです。誰かのために一生懸命になれるところが好きです。しっかりしている様に見えて、おっちょこちょいで放って置けないところが好きです。全部、大好きです!」

 そう、一息に叫んだ。私自身ですら気づかない私の一面に彼は気づいて、私のことを好きでいてくれたことに驚いた。何かの間違いだと思って疑わなかった。自分がここまで人に好かれる事はないと思っていたからだ。
息も切れ切れに、彼は私の目を見つめてまた続けた。

「誰かのために何でもするから、周りのいろいろな事を一人で背負い込んじゃうところ、大きな音が苦手で、耳から入った波動が心にまで大きな影響を及ぼすところ、疲れているのに、それにも気が付かずに無理するところ、心が疲れて傷ついているのに、気が付かないで、気が付かないふりをして、ボロボロになるまで頑張るところ、周りから大丈夫だねと言われると、それを信じて自分のSOSにも気が付かなくなるところ、周りが傷つくことには敏感なのに、自分が傷つくのは気にも留めない、そういう、周りには繊細なのに、自分には鈍感なところに寄り添いたいんです!」

何を言われたのかうまく理解ができなかった。
頭で理解をする前に私の中で熱い塊がこみ上げてきて、目から涙が溢れ出した。それでも彼は一切目を逸らさずに、

「ま、周りに繊細でいる必要なんかないんだよ!もっと自分に繊細じゃなくちゃ!」

いっそう大きく叫んだ。私の視界は潤み、前がうまく見えないのに、彼が泣いているのだけはなぜかわかった。
 気がつくと、私は彼に駆け寄って、抱きついていていた。抱きついて、声を上げて泣いていた。周囲に野次馬がいることなど頭の片隅にもなかった。ただただ、彼を側に感じたかった。彼は戸惑いながらも私の背中を優しく撫でた。そっと、優しく。

「ぼ、僕は優美さんの傍にいたいです」

耳元で、彼がそっと囁いた。その囁きは何よりも優しくて、温かくて、私はいっそう大きく泣いた。泣きながら、私の彼に対する感情がようやくわかった気がした。

「私なんかでいいの?」

「優美さんがいいんです」

私は、彼のことが、赤瀬廉太郎のことが好きだ。

「これからよろしくお願いします」

「はい」

※この物語はフィクションです。実在の人物、団体などには一切関係がありません。

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