逡巡する仏教
とは、またまた、今読んでいる『坊さん、ぼーっとする。』の中に出てきた言葉です。
逡巡する―ためらう、ということ。・・・<行ったり来たり>する。
「世界はこのようにある。正しさは、ここにある」と語るだけでなく、「世界はこのようにもみることができる。正しさは、このようにもあるかもしれない」と複数の眼を持ち、とまどいながら生きるための教え。そこにはいつも逡巡がつきまとう。そんな「ためらいの仏教」のことを僕は、個人的に好きだと思った。
私も、好きだなと思いました。
心の拠り所にされることも多いだろう、仏教にしても、このように考えられるということ。
私たちはつい求めてしまいますが、〝絶対的な正義〟はないのだと、教えてもらったような気がします。
未曽有の事態のいま(に限らないのかもしれません)。
どんな選択にも不確かさ、それゆえの不安がつきまとうと思うのです。
賛否両論が生まれて当然かもしれません。
でも、どちらかを信じるにしても、あるいはそれ以外の選択肢を見つけるにしても、
頭ごなしに否定するのではなく、一旦はフラットな気持ちで、ほかの選択肢も見つめるようにしようと思いました。
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