夢幻鉄道〜キャンパスの世界


 

1.
息子が産まれた。
娘が、せがみ続けた弟だった。
なにより僕が、妻が待ち望んだ子供だった。
だが、息子は予定日より三ヶ月前に出産を余儀なくされた、重度の障害を持つ未熟児として生を受けた。
息子が産まれて数日後、娘は6歳になった。


2.
妻は搾乳した母乳を病院に届ける生活を送っており、肉体的にも精神的にも疲弊している。家のことを気にする余裕がない。
必然的に、僕が、娘の世話をすることになる。娘も、自分が悲しい顔をすれば、お母さんの負担になることを、なんとなく察しているのか、明るく振る舞うことが多くなった。

3.
娘は絵を描くことが好きだった。
与えたお絵かき帳は1日でほぼ使い切ってしまう。最近はオリジナルキャラクターの「美少女戦士タミー」とやらをずっと描き続けている。お絵かき帳を与えると、娘はお絵かきに没頭し、母親がいない寂しさをその間は紛らわせることが出来るようだった。

4.
搾乳を続ける妻。生後一ヶ月経った我が子を未だに抱き上げることも出来ず、触れることもままならない。
現段階では順調に来ているが、この先のことは確かではない。
このまま息子は亡くなるかもしれない。
母親の温もりも、その存在すらも知らぬまま。
そう言って、妻は静かに涙を流した。

5.
そんな生活に、僕自身、徐々に蝕まれていっていたのかもしれない。
ある日、お絵かき帳が切れてしまい、絵を描きたいと騒ぐ娘に対して、今日は我慢しなさい、と強い口調で告げた。
すると娘は、家の白い壁に絵を描いてしまった。それにカッとなった僕は、娘を叱り付けてしまう。

6.
普段叱ったことのない父親に驚いたのか、娘は家を出ていってしまう。
ハッとなって、娘を追いかける僕。
だが、娘はなぜか見つからない。
いったいどこに行ってしまったのか。
まさか誘拐されたのかー?

7.
無我夢中で僕は走り続けた。
娘とよく行く公園や、よく遊んだ裏道。
1時間くらいは探しただろうか。
妻に連絡とか、警察に連絡とかは、走り続けて体力に限界を迎えた時にようやく思い至った手段だった。
状況を整理するために家に戻ると、玄関の前に娘は座っていた。

8.
涙が出そうになるくらいホッとした。
娘を強く抱きしめ、辛く当たってしまったことを必死で謝った。
僕の胸の中で、娘は言った。壁に絵を描いてごめんなさい。と。
消せるかな?と娘は心配そうに聞いた。
消す必要はない、と僕は答えた。
この時のことを忘れたくない、と思ったから。

9.
壁に描いたものに目をやる。
相変わらず、美少女戦士タミーと、「ハハ」とカタカナで書いてある。
娘は今、文字の練習中だ。だが、半濁音は苦手らしい。
本当はパパと書きたかったようなのだが。
これじゃあ、ママっていう意味になるよ?って笑いかけると、じゃあこの文字は、ママでもパパでもあるんだね!と意に返さない。

10.
妻の精神的負担は、相当なところまで行った。
息子を健康に産んであげられなかった罪悪感。娘に構ってあげられない罪悪感。
自分は母親として人間として失格なのだ、と自分を責め続けたのだ。
僕自身、息子に対しては同じ気持ちだ、
一人で抱え込まないでくれ、と伝えてみる。
「あなたには、わかりっこない」
…自分の無力さを思い知る。

11 .
娘の部屋を訪れる。
そこには妻のお母さんがいた。
娘は眠りについたらしい。
娘のことは見てるから、夫婦でしっかり話し合いなさい、と言って、我が家まで来てくれたのだ。
すみません、本当に情けないです。
思わず懺悔と共に弱音を吐いてしまう。
きっと僕と妻のやりとりを聞いていただろうから。

12.
お母さんはなにも言わなかった。
ただ少し、微笑んでくれた。
それを見て、少しだけ気持ちが和らいだ。

13.
リビングで塞ぎ込む妻を見て。
冷静にならなくては、と思った。
少し、外の空気を吸わないか、と妻を誘って家を出た。
すると、そこは普段の景色と違っていた。

14.
薄暗い森の中に、ポツンと1つ寂れた駅が見えた。汽車が停留している。
僕らは、なぜか引き寄せられるように汽車に乗車した。
その瞬間、汽車は走り出した。

15.
汽車の乗客はみな静かであった。
一見不気味な光景であるはずなのに、不思議と違和感を覚えない。
窓の外に目をやると、まるで空を飛んでいるように、列車は幻想的な空間をひたすら進んでいた。

16.
やがて、汽車は止まった。
どうやら目的地に到着したらしい。
そう思って僕らは下車した。
僕らだけだったようだが。
「探し物、見つかるといいですね」
車掌が話しかけてきた。
「探し物?いったい何のことです?」
思わず聞き返してしまう。
「きっと見つかります。ここは夢の中ですから」

17.
駅の出口を潜ると、真っ白の世界が広がった。
白銀ではない。文字通り、真っ白な世界だ。
「ここ、何?どうなってるの…」
隣で妻が混乱している。
僕自身もなにも分かっていなかったが、混乱している人を見ると冷静になるものだ。
とりあえず進んでみよう、と妻の手を引いた。

18.
やがて、一人の女性が立っているが見えた。
近づいてみると、見覚えのある女性だった。
「相川さん!」
妻が思わず話しかける。彼女は、息子を担当してくれている、看護師だった。
ただし、見た目は。
妻が話しかけた相手は、こちらを訝しみながらこう言った。
「私は相川と言うんですか?」

19.
予想もしない反応に、固まる妻。
「すいません、何しろ私は、夢の主が作り出した存在なので、主が知っている情報しか与えられないものですから…」
相川さんと思われる人は、訳のわからないことを言う。
「とにかく、主にあって行きませんか?」
そう言って、僕たちを案内した。

20.
僕と妻は、相川さんに連れられて、主を訪れた。
そして衝撃を受けた。
この世界の主は、産まれたばかりの息子だったのだ。
普段いくつも繋がれた点滴のパイプは、そこに存在していなかった。
その主は、ただただ妻を見つめ、視線の先に手を伸ばした。
赤ん坊が、抱っこをせがむように。

21.
「…抱きしめても、大丈夫、なんで…しょうか」
妻は相川さんに尋ねる。
そうであってほしい、と願っているのが分かった。
「主はそれを望んでいますが?」
相川さんは淡々と答える。
妻は、また涙した。
ここ最近、妻の涙はたくさん見てきた。
そのどれとも、意味が違う涙だった。

22.
妻が、息子を抱き上げる。
息子は安心しきった顔で、妻に身を委ねている。
叶わない夢が、叶った。
妻はそう呟いた。

そして、僕は。
妻に息子が抱き上げられて出来たスペースに、何かがあることに気がついた。
真っ白の世界に、何かがあることを。

23.
そこには「ハハ」と書かれていた。
美少女戦士タミーと共に。

24.
「そういえば数日前、女の子が一人ここに来まして。それを書いていったんです。
どういう意味か尋ねてみたところ、
『ママもパパも、タミーも一緒だったら、寂しくないと思って!』って言ってましたね。
この世界にいる主が、寂しがらないようにという意味だとは思うのですが、よく分からなくて」
貴方は、意味が分かるのですか?と相川さんは聞いてきた。

25.
胸が、ただただ熱くなった。
娘はこの世界に来たのだ。
恐らく、行方不明になったあの瞬間に。
絵を描くことを叱責された娘が辿り着いたのは、この真っ白な世界で。
娘は普段と同じように絵を描いた。
ただ、弟のために。

26.
「…すごいな、我が子たちは」
思わず頭を掻いて呟いた。
子供達に寄り添えなかった父親を他所に、自ら世界を拓いていた。
情けなさと共に、どこか救われた思いがした。

27.
「…もうすぐ主が目覚めるようです」
相川さんに見送られ、僕らは再び駅に戻った。
そこには行きと同じく車掌が立っていた。
車掌は諭すようにゆっくりと話しかけてきた。

「…人は、生物は。寝ている間、ずっと夢を見ているそうです。大半は目が覚めると忘れてしまうようですが、忘れているだけで、夢は見ている。」

28.
「産まれたばかりの赤ん坊も同様です。
赤ん坊は1日の大半を寝て過ごします。
起きている時間はとても僅かですからー」

赤ん坊にとっては。夢の世界こそ真実だ、と言えると思いませんか?

そう言って車掌は、意味深に微笑むのだった。


29.
「…そうだといいですね」
妻が言った。
「でも、いつか現実の世界でも、息子に『会いたい』…そう願ってます」
そう言った妻の顔は、決意に満ちた様子で。
「母は強しだな…」
と思わず呟いた。
すると妻は、
「あれ?『ハハ』は強し、でしょ?」
と冗談めかして言った。
苦笑しながらも、いつもの妻の様子にホッとした。

30.
へんてこりんな世界だった。
夢の中の世界、らしかった。
荒唐無稽な話なのに、なぜか疑う気持ちは湧いてこなかった。
なぜなのだろうか。
事実だけがあり、その理由は検討しようもなかった。
「車掌さん、もしかして、僕たちの娘もこの列車に乗ったのでしょうか」
確信はあったが、念のため確認する。
「あぁ…あなた方の娘さんかどうかはわかりませんが」
車掌はニヤリと笑いながらこう言った。

「美少女戦士タミー、と名乗る女の子なら乗せましたよ」

おしまい


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