夢幻鉄道 夏にあった不思議な出会い Side:S

1.

あの頃以来の、夏だった。

夏休みを利用して、俺の実家に帰省する。それが毎年のウチの恒例行事だった。
コンビニはおろか、隣接する家すらもない山奥の田舎町。しかし、上京して、社会人の生活が体に染みついた頃、大自然に包まれ、澄んだここの空気が、都会の喧騒を忘れさせてくれるような、そんな場所でもあるのだと、ふと気がついた。

娘は、この場所が好き『だった』。

帰省すると、大はしゃぎして、そこらへんを駆け回って、時に転んで大泣きする。
しばらく経つと、転んだことも忘れて、また走り出す。
そんな娘が可愛くて仕方ないウチの親父が、農作業で日焼けした顔に刻まれた深いシワをさらに崩して娘を思いっきり抱きしめる。
それをニコニコと見守るお袋がいる。
親父に抱き上げられた娘は、ジタバタともがいて、親父の手から逃れようとするが、農作業で鍛えられた屈強な男の本気だ。逃れられることはなく、ついには「離してよ!」と、親父にクレームを入れるのだ。それを意に介さない親父が、豪快に笑って、娘の頭をクシャクシャと撫でる。
ここ数年、毎年のように繰り広げられた光景だ。
今は、もう見られない。

あの日、未曾有の大地震が、俺の田舎を襲った。
そして、娘を失って一年が経った。

2.

趣のあったあの建屋は、幼少期を過ごしたあの家は、今はもう、無くなった。

崩れた家屋の瓦礫も、全て撤去され、まるで面影はない。
今は墓が立ち、娘と、俺の親が、眠っている。
そういう場所に変わった、らしい。
信じられない。
信じていない、と言ってもいい。
眠ってる?眠っているはずがない。
元気だった娘の姿しか、知らない。
娘はまだ生きていて。
親父はどこか放蕩の旅に出ていて。
俺は、長い悪い夢をみているだけなのだ。
そう思いたい自分がいる。
しかし、目の前には現実があった。
圧倒的な現実だ。


3.
「…お前の親父も、お袋さんも、無念だったにちげぇねんだ。孫を守れなかったんだからよ」
タケさんが、沈黙に耐えられず話しかけてくる。
タケさんは、親父の幼なじみで、俺自身、小さい頃はよく面倒をみてもらっていた。
ウチの親父は豪胆な性格で、割と放任なところがあった。
俺が悪さをすると、親父より先にタケさんの拳が飛んできた。現代じゃなかなか見られない光景だが、田舎では村人全員で子育てをする、という意識が強い。
こうして、今ここにいるのも、タケさんに呼ばれたからだった。
妻も、そして俺も、現実を直視したくなくて、なかなか、この場所に来ることが出来なかった。そんな俺たちを何度も何度もここに来るよう誘ってくれたのだ。
「なぁ、サトルよ。俺だって、なかなか現実は受け止めらんねぇ。復興だって道半ば、だ。けどな、俺らは前を向かなきゃならねぇ。だから、去年できなかった夏祭り…幸神祭をやろうって、残された俺たちは計画したんだ。お前の娘も、お前のお袋さんも、お前の太鼓を楽しみにしてたろ?だから…」
「タケさん。」
今は、家族だけにしてくれないか。
そう絞り出すだけで精一杯だった。
そうか、と一言だけいって、タケさんはその場を離れてくれた。
タケさんの気持ちは、痛いほど伝わっていた。自身のことで忙しい中、ウチの瓦礫を片付けて、この墓を手配してくれたのは、タケさんだった。タケさんの思いを無下にはしたくない。そんな想いが、ここまで足を運ばせた。
だが。まだ全てを受け止めることは、出来なかった。

4.
娘の墓があるその場所に、線香の香りが充満する。
死を感じさせる香りだ。
この線香が、この香りが、残された者になにかをもたらしてくれるものとは到底思えなかった。

目の前の墓石に、娘の戒名が記されている。
あんまりに耳慣れない名前で、他人じゃないか、と、この期に及んでそう考えてしまう。

「…アキ、アキ。ママだよ。会いたくなかったよね。ママのこと、恨んでるもんね」

ずっと無言だった妻が、ぼそりと呟いた。
そんなことない、と言葉を返したが、
なにも響かないことは分かっていた。
妻の顔をのぞく。まるで何かに取り憑かれたようで、思わず息を呑む。
「アキ、怖い想い、いっぱいしたよね。
ママにそばにいて欲しかったよね。
いっぱい泣いたよね、ママーって。
どうして来てくれないのって、そう思ったよね」
「…やめろよ」
そんなこと、自分を傷つけるような真似すんな、と思わず強い口調で咎めると、妻は咳を切ったかのように畳みかけた。
「いいわよね、貴方はきっと恨まれていないわ。だって、あの子が産まれてから、ずっと側にいたのは私よ?貴方が仕事で遅くなった日も、付き合いで飲み会に参加した日も、友人と旅行に行った日も、貴方がいない間、アキの側にいたのは、私なのよ!
なのに…肝心な時に、私はあの子の近くにいなかった。一人で心細い思いをしながら、どうして助けてくれないのママって、そう思いながら死んだのよ、あの子は!」

溜まり込んで、見ないようにしていた想いが、溢れたかのように。

「アキ、ごめんねぇ…!守ってあげられなくてごめんねぇ…!お母さんのことを許してねぇ…っ!アキに、アキに会いたい。私もアキに会いに行ったらだめかなぁ…」

なにを馬鹿なことを、と思った。
思っただけだ。
何かを、一言二言呟いた。なにを呟いたかは覚えていない。
自分の言葉すら忘れてしまうほどに。
何かが決定的に欠落してしまったのだ。

娘を失って以来、俺たちはただそれぞれの職場で無心で働いた。
現実を直視したくなくて、仕事に邁進した。
同僚から見ればさぞ触れづらい存在だっただろうが、そんなことを気にすることもしなかった。
家では、事務的な会話以外、しなくなった。
お互いかける言葉も見つからなかった。
娘という太陽がなくなって、俺たちは闇に囚われ続けた。
昨日のことなんて、なにも思い出せない。
胸にあるのは、後悔だけだ。
果たすことのできない、想いがあるだけなのだ。

5.
チリンチリン。
ふと、何か音がしたことに気がついた。
なにやら懐かしい音だ、と思った。
それが実家にある、風鈴の音だと気がつくまでに、それほど時間はかからなかった。
でも、なぜこの音が?どこから?
ふと周りを見渡すと、泣いていたはずの妻も、辺りを見渡していた。
そして、何かに気がついたように、森の奥のほうを指さした。

「…ラン」
「え?」
「…っ!あなた!みて、ランがいたわ!」

突然、妻が取り乱した。
妻の目線の先に視線をやると、そこにはネコがいた。
ただの猫ではない。
俺の両親が飼っていた、猫に見えた。

あの地震以来、姿を見せなかった猫だ。

あの日。
地震が発生したあの日。
娘はランを探しに家に戻った。
娘を抱えて脱出した俺も、それを追って脱出した妻も、体を負傷していて、娘を止めることは出来なかった。
そして、娘は二度と戻ってこなかった。

あの猫さえいなければ。

ふつふつと湧き上がる感情。
気がつげは、俺たちはランに似ている猫を追った。
するとランと思われる猫は、森の奥に走っていき、やがてすぐに見失ってしまった。

6.
猫を探して森の奥に進むと、そこには駅があった。見覚えのない、駅だ。
薄暗い森の中に、ポツンと1つ寂れた駅。
汽車が停留している。
この田舎に、こんな駅があった記憶がない。
いったいこの駅はなんなのだろう。
もしかして、ランはこの汽車に乗車しているかもしれない。
俺たちは、汽車に乗車した。
その瞬間、汽車は走り出した。

7.
汽車の乗客はみな静かだった。
一見不気味な光景であるはずなのに、不思議と違和感を覚えない。
窓の外に目をやると、まるで空を飛んでいるように、列車は幻想的な空間をひたすら進んでいた。
「これはいったいどういうことだ?」
そして、猫が、ランが、そこにいた。


8.
「生きていたのか…」
そう思わず呟いた。
ランは何も言わない。
静かにおとなしくそこに佇んでいた。

やがて、汽車は止まった。
どうやら目的地に到着したらしい。
ランが汽車を降りていく。
全て、分かっているかのように、歩いていた。
俺たちはランを追って下車した。
この先に、何かがある。
そんな予感がした。

9.
しかし降りてみると、拍子抜けした。
俺の実家の最寄駅だったからだ。
つまり、元いた場所に戻っただけ。
「なんなんだ…」
思わず悪態をついてしまう。
緊張していた分、落胆も大きい。
そんな俺を無視して、ランは進み出す。
決して走りはしない。
まるで、ついて来いと言わんばかりに。
俺たちをどこかに導こうとせんばかりに。
近づきすぎず、離れすぎず、俺らは歩き続けた。
とはいえ、ランが歩いた道は、勝手知ったる道で。
なんとなく、ランが目指している場所は分かっていた。
何度も歩いた道を、ランと、俺と、無言の妻が歩く。

10.
やがて、先ほどまでいた場所が見えて来た。
元々は実家があった場所。
つまり、墓だ。
何もわからぬまま、歩かされるだけ歩いて。
俺たちがたどり着いた場所はどうやらスタートラインで。
結局、俺たちはあの日以来、ここから一歩も踏み出せていないのだ、と。
ランはそう言いたいのだろうか。

「おい、ランー」
と言いかけたところで、言葉に詰まる。

確かにここは先ほどまでいた墓だ。
線香の匂いが立ち込めて、灰が地面にポツポツと散らばっている。
供えた花は、まだ瑞々しさを保っているし、
タケおじさんが綺麗にした墓石は、まだ光沢を纏っていた。
そう、ここは先ほどまでいた場所に違いないのだ。

ーその人を除いては。

墓から見える、真っ直ぐな道の先に。
見覚えのある姿が、見える。
しかし、そんなことはありえない。
あってはいけない。

「ラン、これはどういうことだ!」

ランはついて来いとばかりに、その人物に向かって走る。
それに急いでついていく俺たち。

もう二度と見ることのないはずの、その人は。ここに存在するはずのないその人は。
真っ黒に日焼けしていて。
深いシワは、あのときのまんまだ。

「おう、久しぶりだな」

そう、話しかけてきたのは、
死んだはずの、俺の親父だった。


11.
「…夢か?」
思わずこぼれた声は、この状況における最適解のように思えた。大富豪の革命のような出来事が起こり、現実と夢が入れ替わることを望んでいた。いよいよ願いが叶ったのか。それともいよいよ頭がおかしくなってしまったのか。俺の思いを測ってか、なんとも複雑な顔をした親父が、
「…夢か。夢にはちげぇねぇ。」
頬を軽く掻きながら言った。
笑顔といえるかどうか微妙な、感情の読み取り辛いあまり見覚えのない表情で、この異質な状況をさらに異質に感じさせる。

「かおりさんよ」

親父に名指しされた妻は、声こそあげなかったものの、驚いたのだろう。目を見開いて親父の方を見た。

「すまなかった。謝って終いになるようなことじゃねぇが…アキを守ってやれなかった…こんな罪深いことはねぇ。すまなかった…」

12.

謝罪の言葉を続ける親父も、後悔に苛まれる親父の苦しい表情も。
俺が一度も見たことのない、オヤジの姿だった。

「なぁ、親父。これは一体どういうことなんだ?親父は生きてたのか?」
「…夢の中、らしいよ、あなた。」

俺の横にいた、同じ状況なはずの妻が、感情を表さない静かな声で答えていく。

「あなたが電車の中で、ランと戯れてた時、わたしあの電車の車掌に聞いたの。これは誰かの夢の中へ向かう列車なんだって。にわかには信じがたい話だけど」

あの状況で、妻は意外と冷静にしていたようだ。ランのことで頭が一杯の俺は、まったくそんなことがあったと知らなかったが。

「俺もよ、自分が夢の中の存在で、現実じゃあ既に死んでるだなんて、これっぽっちも知りはせんかった。ランに会うまではな。」

親父は肩をすくめながら「ランには不思議な力があるようだった」と続けた。

そういえば、先程まで必死で追いかけてきたランの姿は今は見えない。
いったいどこに行ったのだろう。

13.

「ランと会って、お前たちと会えると聞いてよ。謝りたかった。あのとき、お前たちがウチに来なきゃこんなことは起こらなかったんだ。お前らからアキを奪ったのは…」

それ以上、親父の言葉は続かなかった。
歯切れの悪さが、親父の罪悪感の大きさを表してるように感じた。
あの日、親父の時間は止まったのだ。娘が死んだことに対して、懺悔する機会自体、親父には与えられなかったはずなのだ。
なぜ、こんなことが起こっているのだろう。

「…アキは、一度脱出したんだ。親父たちはそもそも脱出すらできなかった。アキを守るなんて不可能だ。それにー」
「恨んでいますよ。お父さんを」
「かおり!」
「何か一つ違えば、娘を失わずに済んだんじゃないかって。私はそう思って1年間過ごしてきた。だから、全てを恨んでるわ。お父さんも、お母さんも、貴方も、そして、私も。でもお父さんは亡くなった。それで罪はなくなったわけですよね?私も早く死んで、罪を償いたい、そう思っています」
「かおり!もうやめてくれ!」
あんまりな言い分だった。
妻がこれほどまでに破滅的な思考に陥っていることに気が付かなかった自分が嫌になる。

「なぁ、かおりさんよ。その気持ちはすげぇ分かるんだ。ここは夢の世界。この世界の主人も、その罪に苛まれていて…もう、死にたがってる。でも、俺はどうしてもアイツを死なせたくねぇんだ。だからお願いだ。なんとかアイツを解放してやって欲しいんだよ」

そのために、俺はここに来たんだ、と、親父はつぶやいた。

「俺の女房を、楽にしてやって欲しい」

14.

地震の後、救急隊員が、跡形もなく崩れ去った俺の実家を捜索した。
まもなく、捜索は目的を達成した。
瓦礫の中で、亡くなっている親父が見つかったのだ。そして、その下に。
お袋は親父の体に守られるように横たわっていて、意識不明の状態で見つかった。
その後、救急車で運ばれたお袋は、奇跡的に息を吹き返し、一命を取り留めたのだ。

しかし、元来体の弱いお袋は、地震がもたらした被害、孫が亡くなって自分が生き残るという事実、なにより親父が亡くなったことに耐えることが出来ず、寝たきりの生活となった。
家を失ったお袋は、タケさんの紹介で田舎の病院に入院した。
俺はそこに何度となく通った。
お袋が心配だったのもあるが、それをしている間は、妻からも、娘からも解放されている気がしたからだ。

「ここは、お袋の…」
「そうだ。あいつがこの世界に、お前たちを呼んだんだ」
「そんな…」
「さとる。お前にしか頼めねぇ。アイツの背負ってる罪は、俺の罪だ。だが、俺は死んじまって…何もできないんだ」
親父の瞼が濡れる。男なんだから涙を見せるな、と散々俺に言ってきた男の瞼が、だ。

「…呼んであるんだ。今年の夏も」
「え…?」
「いま。ランが呼びに行っている」

何を言っているのか、わからなかった。
ランは今。いったい、なにをしているのだろう。


15.

ランが帰ってきた。
すこしばかり散歩をして帰ってきただけだ、と言われても別になんの疑いも持たないくらい、いつも通りの表情で。
もっとも、猫の表情を読み取ることなど、そもそも出来ないのだが。

「ラン。ありがとよ。もう思い残すことはねぇ。今年もウチに遊びに来てくれたか?」

にゃあ、と、ひと鳴きするラン。
親父に返事しているように見えた。

「…そうか。さとる、お前は本当に親孝行なヤツだよ。」
「親父、なにを…」
「毎年な、本当に毎年、ウチに遊びに来てよ。タケんとこなんて、呼んだって帰ってきやしねーとよくぼやいんていたもんだ。いつ帰ってこなくなるかって、毎年覚悟してたんだがな、こっちは。でも、帰ってこないことはなかった。あの時も、そして今回も」

ありがとな、って、親父が言った。言った気がした。正確なところは分からないが、そんな気がしたのだ。

「いってこい。お前たちが今最も会いたいヤツが、そこにいるから」

目を真っ赤にして、親父はそう言った。
親父とはこのまま、もう会うことはないのだろうか。思い残すことがないって。親父はさっきそう言っていた。

「…お袋のことは、なんとかするから」
「なぁさとる。お前も親だ。子供になにをしてもらうことが一番嬉しいか、分かるだろ」
「え…」
「前を向いてくれ。なんとしてでも」

それ以外、なにもすんなと。
それが親父の最後の言葉だった。

16.

いま、いったい何時なんだろうな、と。
さっきより長く伸びる影を見て、ふとそう思った。
何時まで、ここにいることが出来るのか。

「ねぇ、貴方。私たちが最も会いたい人って…」
妻の質問に、俺は無言で回答する。
最も会いたい人物。
どう考えても一人しか該当しない。
でも、それを、口にするのは憚られて。
言えなかった。

「怖いの。あの子に会うのが。」
妻は足を止めた。
「会いたいって、思ってた。でも。思っていたからこそ、会う資格なんてない気がして」
「分かるよ」
「え?」
「期待しちゃいけない気がするんだ、俺たちは。娘を守れずにのうのうと生きてる俺たちには、苦しみから逃れること自体、許されないことなのかもしれない」
「…」
「会う資格ないって、俺も思う。でも俺はそれを無視することにするよ。自分に言い訳してね。そうさ、これはウチの親父がお膳立てしたせいなんだよ。親父がお袋のためにやったことで、俺はそれに付き合ってるだけ…最低だろ?全部都合のいい逃げ道を用意してやろうと思ってる」
ぶつぶつと、自分に言い聞かせるように呟く。考えがまとまっていないので、言いながら、自分もよくわかっていない。
「それに、怖いのはそれだけじゃないのが俺の本音さ。どちらかと言えば、期待をさせるだけさせといて、これが夢だったとか、裏切られることのほうが怖いんだ。会えるなんて希望を持って、裏切られるのが怖いんだ。けど、俺は、会う。期待する。かおりも、着いてきてくれよ。」
会う資格なんてないけど、会うんだ。
一人ではそんな勇気出ないから。
ついてきて欲しい。
そう思いながら、ただ進む。

17.

ランが、足を止めた。
場所は、娘の墓だった。
あたりはシーンと静まって、人気がない。
静寂が、恐怖感を呼び覚ます。
やはり、会えないんだと。
なぜ、会えると思ったんだ、と。
そう思った矢先、

「これから、アキちゃんを連れてくるね」

という声がした。

次の瞬間、小さな光の球見たいなものが現れた。

しゅうしゅうと音をたてながら膨張していくそれを呆然と見る。
ドライアイスのようなものが、その周りを纏いながら、広がる。
やがて光が当たりを包み、視界が真っ白になった。
何が起こったのか分からない。
ほどなくして真っ白の世界が色づいていった。
先ほどまでいた現実世界をひとつひとつ描いていっている…ように見えた。
そして完全に元の世界に戻ったと思ったとき。
一つだけ、先程とは違う要素が生まれていた。

「…アキっ!」

そう、叫んだのは、俺か、妻か分からなかった。

18.

会いたかった人が、娘が。そこにいた。
とても、悲しそうな顔をして。

だから、言葉が出なかった。
頭が真っ白になってしまった。
記憶にあったどの表情の娘とも合致しない。
それとも、俺が知らないだけで、妻は知っているのだろうか。

「アキちゃんが伝えたいことがあるんだって。聞いてくれるかな」

また声が聞こえた。
妻でも娘でもないその声は、該当するとしたら一人しかいなかった。いや、一匹と言うべきか。

その思考を進めるほどの余裕は、俺にはなかった。


「ママ、パパ、あのね…」

娘が、口を開いた。

19.

私ね、ずっと、謝りたいことがあったの。
ママのつくってくれたご飯、ときどき残しちゃってごめんね。
ママが用意してくれたお洋服、着るの嫌だって、違うのがいいって言ってごめんね。
パパのカメラ、遊んじゃだめだって言ってたのに、落として壊しちゃってごめんね。
歩きたくなくなって、パパに抱っこしてもらえるまで泣いてごめんね。
ママも、パパも、私がどんなわがまま言っても、最後は笑って許してくれるって、私知ってたの。
いっぱいわがまま言って、ごめんなさい。

パパ、ママ。
こっちの世界にも、パパとママがいるよ。
おじいちゃんとおばあちゃんもいるの。
ランだけいなかったけど、今日会えたんだよ。
みんないつも笑って過ごしてるの。
私も、笑ってばっかりいるよ?

泣いてるのは、ここにいるパパとママだけなの。
そんなの、わたし悲しいなって思ったよ。
明日から、もっと元気な二人になってね。
涙が出ちゃったら、その分、いっぱいワハハってしてね。
わたしのわがまま、叶えてね。
そしたら、いつもみたいに。
最後は笑ってくれるよね?


20.

俺は、本当に情けない父親だ。
我が子を守れなかった大馬鹿者だ。

そして今。
死してなお親を想う娘に、救われようとしている。

ワガママを、くれたんだよな、アキ。
もう聞くことはないと思っていたよ。
アキの些細なワガママを聞いてあげなかったこと、何度悔いたかわかりやしない。

「アキの最後のワガママだ。絶対に叶えてみせるよ」

妻が、言葉にならない様子で必死でうなづいている。

21.
妻も俺も、おそらく娘も。
これが最期だと気が付いていた。

「ねぇ、今年はお祭りないの??私、太鼓叩きたい!」
「そんなこと言って、やり方覚えてるのか?」
「ちゃんと覚えてるよ!おじいちゃんも褒めてくれたんだから!」
娘が口でカッカと言っている。
本当に叩けるのかは未知数だ。
「口笛も吹けるようになったよ!ママに教えてもらったやつ!」
ヒューヒューと息がかすかに通る音がした。これを口笛と呼べるかもまた未知数。

もうお互い何を話しているのか、わかっていない。
でも、それはいつだったかの家族風景で。
娘が生きていたころの我が家だった。
妻も目を真っ赤にしながらも笑っていて。
こんな顔を見るのはいったいいつぶりだろうと思った。
もう見ることはないんじゃないかと思っていた。
なぁ、アキ。
君はすごいな。
どうしてキミみたいな子供が俺のところに来てくれたんだろうな。
情けない親父でごめんな。
でも、約束は守るよ。
それだけは俺が唯一キミに口酸っぱく伝えたことだもんな。
だから、安心して欲しい。
最後は笑って、キミの元に行くから。
だから、そのとき、またいっぱいワガママいってくれよ。

気がつけば日が暮れて。
いつしかアキの姿は無くなっていた。

「わたし、ママとパパが大好き!」

そんな声が聞こえた気がした。


22.

ランがまた歩き出した。
どうやら、先程歩いた道を戻るようだ。

「何かが、変わるのかな」
妻が言った。
すべての不安が消えたわけではない。
また娘を失った苦しみが、ふと襲ってくるのは間違いない。
それでも、前に進まなくちゃいけない。

「タケさんに、会いに行かないか」

ひとつ。やりたいことがあった。


23.

「祭りに出るって…大丈夫なのか?」
「なんだよ、そっちが誘ってきたんだろ」
「そうだけどよ…まぁ、前向きになったんならいいこった」
このオッサンも人がいいよなぁ、と思う。

「お袋の病室から、祭りの音って聞こえるのかな?」
「広い町じゃねぇし、そりゃ聞こえるだろうよ」
「そうだよな。なぁ、タケさん。おれさ、タケさんと親父に教わったじゃん、太鼓の叩き方。」
「お前の親父は教えてはいねぇよ。ただ叩いてるところ見せただけだ」
「あれ嫌だったんだよね。なにが嫌だって、親父の自慢話が、さ。」
「なにそれ、聞いたことないけど」
妻が口を挟む。
「言わないよ。親の惚け話なんて、気持ち悪いじゃん」
太鼓を身につけろ、そうすればいい嫁さん貰えるぞ、俺のようにな!
なんて笑う親父を、白けて見ていたあの頃を思い出す。
でも、自分が教える立場になった時、あれは良いところを子供に見せようとしてしまう自分を誤魔化すための照れ隠しなのだと気がついた。
「…叩くのか?」
タケさんにも思うことがあるのかもしれない。言葉をグッと飲み込んでいるように見える。
「届けたいんだよね。アキの思いとか、親父の思いとか」

なぁ、お袋。
太鼓の音、聞こえたらさ。
目を覚ましてくれないか。
話したいことがあるんだ。

夏にあった不思議な出会いのお話だ。

おしまい。


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