「○○よりはマシ」論法の罠
「ゲーム買って〜」
「だめ」
「何で!買ってよ」
「ウチにはそんなお金はありません」
「何でお金無いの!欲しいもん」
「アフリカの貧しい国の子どもたちのこと考えてごらん。それと比べたらマ シでしょ。
ウチより苦しんでる人達がいるんだから我慢しなさい」
この論法、おねだりする子どもを黙らせる方法としては非常に有効です。
そして至って真っ当な正論にも聞こえます。
しかし、この「○○よりはマシ」論法には、思わぬ罠があります。
この論法は、ただの子供騙しに終始するものではありません。
私たち大人の内面にだって、とても日常的に語られるものです。
各境遇ごとに例を挙げてみましょう。
まずは正社員の例。
正社員ではあるが多忙な日々。
残業も多く、上司にもキツく当たられ、
ノルマが達成できないと上司はもちろん社内でも冷たい目で見られる。
やりたい仕事かと言われればそうでもないが、
特に他にやりたいことがあるわけでもない。
学生時代と比べるとそんな悩みを打ち明けられる友人もいない。
自分の人生の意味って何だろう。
でも、きっと自分よりしんどい思いをしてる人はいるはず。
フリーターよりはマシだよな。
自分を正社員で雇ってくれる会社なんて他にあるのか不安だし。
まあ、このままでいいか。
次にフリーター及び派遣社員などの非正規雇用者。
薄給で何とか食い繋いでいる状態で、就活もうまくいかない。
今のままでいいとは思わないが、仕事があるだけマシか。
ニートやホームレスよりマシだ。今日も夜勤バイト行こうっと。
次にホームレス。
流石にこの層は自分が底辺だと思うかもしれませんが、先進国のホームレスは途上国のスラム街よりはマシ、堕落していったのは自己責任だから、と平気で言ってのける人もいます。
このように、この論法は、どこまでも下へ降ろしていける。
半永久的に他の階層へ問題の置き換え、話のすり替えができてしまうのです。
仕事は辛いしプライベートも充実しているとは言い難いけれど、
テレビや国境なき医師団、赤十字やユニセフの宣伝で流れるような
貧困層の子どもたちの痩せ細った姿を思えば、
明日も頑張れる。
これは一見美談に感じますね。
確かに途上国の貧困は喫緊の課題ですし、上にあげた団体に寄付をするのも自由です。
しかし、自分より下の人がいる、「下には下がいる」と胸を撫で下ろす、あるいは自分より苦しんでいる人がいるから頑張る、という考え方は、
自分の抱えている問題から目を背けていることにもなり、問題の本質を見ないまま、臭いものには蓋よろしく見てみぬふりをしていることに他ならないのです。
「○○よりはマシ、だから頑張ろう」
と考え、問題を後回しにする事よりも必要なのは、
「しんどいもんはしんどい、自分の知らないところで知らない誰かがどれだけ苦しんで居ようが、わたしが感じている苦しさはわたしだけのものだ」
という考え方だと思います。
「もっとしんどい人がいるから」
という抜け出せない蟻地獄により、誰も「しんどい」と言えない。
それが心身の病気に繋がったり、DVや虐待、犯罪行為や引きこもり、
自殺やその他社会との関係を自ら断つ行為に繋がってくるのでは無いでしょうか。
そこまで特別な例でなくとも、
「普通」の人が抱える漠然とした「生きづらさ」も、これに拠るところが少なからずあるのでは、と思います。
比較対象を設けて束の間の慰めで一時回復し、
元気をその都度チャージするような毎日。
そこに未来はあるのでしょうか。
いま社会に必要なのは、
「千差万別の『しんどさ』を無条件に受け止め、自己を承認してくれる存在や場所、共同体」
であって、決して論点のすり替えでは無いはずです。
次の記事では、その「無条件に承認してくれるということ」について考えていきたいと思います。
それではまた。
小野トロ
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