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ノンバーバル・コミュニケーション 話してくれない生徒に教わったこと

ノンバーバル・コミュニケーションって聞いたことありますか?

非言語コミュニケーションってやつですね。

端的に言うと「言語を使わないコミュニケーション」のことです。

「言語を使う」の方がバーバル・コミュニケーションですね。

具体的には、声のトーンやリズム、高低や音量、ジェスチャーなどの身振り手振りを介したコミュニケーションがこのノンバーバル・コミュニケーションにあたりますね。

このノンバーバル・コミュニケーション、有名な話かもしれませんが、
メラビアンの法則」というものがあります。

これは、視覚情報(表情、服装、髪型など)55%聴覚情報(声のトーン、テンポ、声質など)38%言語情報7%

というやつですね。
ノンバーバル・コミュニケーションが93%。
バーバル・コミュニケーションは7%、ということです。

えー、言語を介するコミュニケーションってたった7パーなんだあ!

というこの法則ですが、留意点としては、筆談や手紙、メールやLINEはバーバル・コミュニケーションになります。
まあ言語を介してますからね。

ここで言いたいのは、「発話」のみがバーバル・コミュニケーションではない、ということです。面と向かって対話するだけがバーバル・コミュニケーションではないということですね。

さて、このノンバーバル・コミュニケーションですが、なぜ冒頭でこの話をしたかというと、

タイトルにもある通り、「話してくれない生徒」と出会い、その子から教わったことを話したいと思ったからです。

仕事で関わった生徒のことは詳しくは言えませんが、
小学6年生の男の子で、同世代の友だちとは話すものの、親以外の大人には口を開いてくれないという子でした。

僕はその子の宿題を放課後に一緒にやるということを卒業までの約半年間していたのですが、

結局最後の日まで口を開いて話をすることはできませんでした。

しかし、彼は2週間に1回のその場に、1回も休まずに来てくれました。
もちろん親に言われたから、先生に言われたから、色々とあるとは思いますが、とにかく来てくれました。

黙々と宿題をし、僕からの問いかけには頷きと首振りで答えてくれました。

初めて帰り際に「さよなら」と言ってくれたこと。

宿題の合間にスマホでゲームをやらせてあげると、笑顔を見せてくれたこと。

まるで初恋の人の一つ一つの行為が、自分に向けられたものでなくとも、全てが嬉しいという感覚。あの感覚をふと思い出しました。

子どもと触れる仕事をされてる方は一度は体験されるかと思います。

わずか半年間ではありましたが、発話によるコミュニケーションがなくとも、明らかに初めて会った時とは異なる空気が彼と僕の間にはありました。

言葉では確かめようがないので、真偽は確かではないですが。

しかし、たとえ口で「愛してる」と言われてもその真偽は本人にしかわからないように、
口に出して何かを伝えようと、黙っていようと、「人の心」なんてものは、はなからわからないんだ。

そのことを彼は僕に教えてくれました。

そりゃあ彼はそんな裏の意図を持って口を開かなかったのではないし、
彼がある日雲に乗っかった仙人に化けて、
「そうじゃ、わしはそれをお前に教えたかったのじゃ」
と言って説教垂れることもありませんでしたが。

それでも、彼と接するようになってから、僕は他にも色んなことに思いを巡らせました。

僕たちが普段「会話する」ことに重きを置きすぎていること。
人を信じるって何だ?
素になる?本音で話す?
言葉がその人の全てを表しているわけではないにしても、
いっぽうで比率が高いノンバーバル・コミュニケーションも、
表情や仕草がその人の心をそのまま表しているわけじゃないし、、、

月に2回会って宿題を一緒にやるだけの関係の小学生をきっかけに、
僕の思考はドツボにはまっていったわけです。

僕は日頃こういうことばっかりしてますから頭は毎日疲れてます。
案外楽しいのでいいのですが。
考えなくてもいいこと。何一つ生み出さない、生産性などといったものとは無縁な思考で、
昔から考えなくてもいいこと、得にならないことばかり考えていますが、
ごくたまに、「よくそんなことからこんなことが連想できるね
と言ってくれる神様みたいな人がいたりします。

そんな終わりのない思考の果てに、僕が彼から貰ったもの。

それは、言葉に重きを置きすぎる僕らの日常への戒めでもあり、
と同時に言葉の尊さでもあります。
言葉なんてなくても伝わるものがある。
と同時に言葉があっても決してわからないものがある。
言葉がないからこそ伝わることもある。
そして、言葉には限界があるが、必死に心のモヤモヤを相手に伝えようと
新たな言の葉を紡ぎだしてきた先人たちの健気で壮大な積み重ねがある。

そこに言葉の重さや尊さが宿っている。
「話せない」からこそ言葉の限界や無意味さと同時に尊さも知ることができた。

どちらにせよ、彼との出会いは、僕の視座を一つ上げてくれたような気がします。

相手を理解したいと思う。

突き詰めると、コミュニケーションには終わりがないと知る。

それすなわち、人の心を100%理解することは不可能だということ。

けれど、それを諦めるのではなく

100%君を理解することは出来ないけれど、
わかりあうことは出来ないけれど、
わかりあうことはできないということをわかりあうことはできる。
だから、理解し合うことを諦めたくはないよね。
理解し合えないということはわかったけど、そこで途方に暮れるのでなく、
理解したいという気持ちは持ち続けたいよね。
というマインドを全人類が持てれば。。。

理解し合えないという事実の存在自体を理解し合う。

マハトマ・ガンディーは生涯を通してこのことを言いたかったんではなかろうか。

と勝手に思っています。

収拾がつかなくなってきそうなのでこの辺で終わりにしましょう。

それではまた。

小野トロ

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