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【古代会津の「黄金と朱」】②


■金鉱と朱

ところで、金の鉱山には朱がともなうことが多いのだという。
金山の前身は朱の産地だったする研究者もいるほどだ。
江戸時代、多くの金鉱をかかえた会津は、古代において、朱の主要産地だったと考えてみてはどうだろう。

3代にもわたる豪族の繁栄を示す一箕古墳群(会津若松市)の周辺には、石ケ森金山がある。
さらに、雄国山古墳群(塩川町)から東の磐梯山を望めば檜原金山、高寺山のある宇内青津古墳群の北には三ノ倉金山があった。

これらの金山は、近代の文献から明らかになるのだが、古代にはさらに多くの金鉱があり、そこには赤褐色の岩や崖が広がっていたと想像してみる。

人々は、赤く露出したそのかたまりを採掘し、掘りつくせば、また赤褐色の場所を探し続けた。
発掘した後にはふつうの地面や崖が残るだけだから、後の世では採掘の場所さえ分からない例が大半だという。

邪馬台国の最有力候補地である纏向遺跡(奈良県)は、「180年から350年にかけて突然現れ、そして突然に消滅した。自然発生の集落ではない」(石野博信氏)。
稲作に基盤を置く集落ではなく政治的な都市だった。

「纏向遺跡が主産地朱産地を背景とする大集落であったとすると、鉱床の枯渇とともに、採掘者は次の現場を目指しこの地を去ったことになります」と蒲池明弘氏は指摘する。


■「四道将軍」派遣の目的

崇神天皇10年(3世紀前半)に北陸、東海、西道、丹波にそれぞれ派遣されたのが四道将軍だ。
北陸道を平定した大彦命(おおびこのみこと)と、東海道を平定した建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が合流した場所が会津だ。

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      (伊佐須美神社楼門の大彦命と建沼河別命)

四道将軍派遣の目的は、ヤマト王権による地方の平定といわれる。
だがその頃は、蒲池氏の指摘する、纏向の地で朱の鉱床が枯渇し採掘者が次の現場を目指したという時代、に重なるから面白い。

四道将軍の派遣は、列島各地の資源の探索が目的だったのではないだろうか。

吉備津彦命の派遣された西道の吉備(岡山県)や丹波道主命の派遣された丹波(京都市北部)は、鉄資源も豊富で朱の産地でもあった。

伊豆半島から静岡・糸魚川構造線に沿い、新潟から東北の日本海側には黒鉱鉱床ベルトがある。
この黒鉱からは銅、亜鉛、鉛などが得られ、金鉱山が多数存在する。
大彦命、建沼河別命の行程と、この鉱床地帯の分布は、概ね重なるのではないだろうか。(続く)

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