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【古代会津の「黄金と朱」】①

■高寺山の財宝伝説

平成30年10月、会津坂下町の高寺山で遺跡の発掘調査が行われた。
高寺山には、仏教公伝の頃中国僧青巌(せいがん)が寺を構え広く仏教を伝えたという伝説がある。
現地説明会には、平日にもかかわらず100名を超える参加者があったというから、多くの人が関心を寄せていることがわかる。

「山頂近くから建物の基礎の石や柱穴、土師器・須恵器、仏具の鉢の破片が見つかり、9世紀前半ごろに小規模な山寺が複数建設されていたとみる。礎石を伴う山寺跡としては東北最古級の可能性があるとし、徳一との関連も考えられる。」(民友新聞記事から抜粋)

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ところで、この高寺山にはもうひとつ、財宝伝説がある。
「立てば前 座ればうしろ山吹の 黄金千杯 朱千杯 三つ葉うつぎの下にある。」
高寺が兵火で炎上したとき、密かに財宝(黄金と朱)を埋めたと伝えるこの伝説には、何かヒントがある気がする。
黄金と朱をキーワードに古代の会津を考えてみたい。


古代の朱と水銀

古来の正当な朱色は、今でも神社の建造物や漆の茶碗などに用いられる鮮やかな朱色のことだ。
その原料は、赤褐色の「辰砂(しんしゃ)」という鉱石で「丹(に)」ともいわれる。
粉砕すれば朱色の顔料となり、高貴な古墳の内壁や石棺などに塗られた。(ベンガラを原料とする朱とは違い希少価値がある。)

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          (辰砂 結晶美術館HPより)

もうひとつの特徴は、辰砂を空気中で加熱・生成すれば水銀ができることだ。
中国の道教における不老不死の妙薬は、まさにこれを原料とした。


■邪馬台国は朱の王国だった

魏志倭人伝(3世紀)には、「その山には丹あり」「倭王、丹を献上す」「朱をその身体に塗る」などと、日本の丹について詳しく伝えている。(以下、辰砂を朱と表記する。)

8世紀の『続日本紀』には、渤海の使者へ水銀と黄金、漆などを贈ったとあり、その後の資料でも、金、銀、水銀、硫黄、錫、鉄などが中国へ渡ったと伝えている。
つまり、朱は、金・銀と並び古代より中国へ輸出された重要産品だったのだ。

蒲池明弘氏は『邪馬台国は朱の王国だった』の中で、古墳文化の豊かさの背景に海外との貿易を想定する場合、人間(兵士、奴隷)、米、魚介類、翡翠などの宝石、木材、船など諸説あるが、朱が主要な交換材ではなかったかと指摘する。

朱産地の四大鉱床郡を、九州の西部と南部・阿波・大和としたうえで、邪馬台国論争の地や、神武天皇の東遷ルートとの関連を挙げる。
「九州南部の日向にいた人物(集団)が大分県の宇佐をはじめとする各地の主産地を経て奈良に入り、巨大な朱の鉱山を発見した。その人物(集団)は朱を原料として水銀をつくる技術を有しており、それを中国や朝鮮半島に輸出して途方もない財力を得た。その経済力を背景として奈良盆地を支配した、というストーリーだ。」


豪族の富の形成

会津には、古墳時代前期(4世紀)に前方後円墳を築造した豪族が群立していた。
ヤマト地域に匹敵するほどの権力を持つこの豪族たちを支えた背景について、私が以前指摘したのは鉄だ。

湖や湿地に生える、葦などイネ科の植物の根に形成される褐鉄鉱を原料とした製鉄が、既に弥生時代には行われており、後に砂鉄を取り込みながら、古代会津は製鉄の一大生産地を形成したという私見だ。

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(褐鉄鉱:沼地に生えていた葦の根に水酸化鉄が沈殿して出来た鉱物)

つまり、簡易な農具などの鉄製品は、既に弥生時代にはつくられ、それが領土開発の基盤になったとみるのだが、一方で、豪族たちの富の形成には、朱が重要な存在だったと考えることもできる。(続く)

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