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猪苗代湖畔で「古代製鉄」を想う①


湊町の須佐乃男神社

福島県、猪苗代湖西岸の湊町。
「須佐乃男(すさのお)神社」は小高い丘にある小社で、参道を上ると神様は東を向き鎮座する。
その見つめる先には、日本国内で4番目に広い湖「猪苗代湖」が広がる。
神社からほんの200メートルほどだ。

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         (須佐乃男神社 会津若松市湊町)

この一帯では、約250万年前から盆地の形成が始まった。
約9万年前と5万年前には磐梯山の噴火による火砕流や泥流で河川が堰き止められ、現在の猪苗代湖ができたと言われている。
強酸性の地下水や流れ込む河川の水質の影響で、湖水は酸性を示す。

猪苗代湖の西岸地域には、2万5千年前の旧石器時代の遺跡や7000年前の縄文時代の遺跡が多く、太古より人々の暮らしが営まれていたことがわかる。

さらに、湊町一帯では製鉄のスラグ(鉄滓)の出土が多いから、この地は古代より鉄の一大生産地だったことは間違いない。


名だたる製鉄集団

地元の研究家萩生田和郎氏は、これを裏付けるものとして祭祀があると語った。

赤井の「荒脛巾(あらはばき)神社」、笹山の「須佐乃男(すさのお)神社」、東田面の「金砂(かなすな)神社」は、それぞれ津軽、出雲、加賀を本拠内とした製鉄集団であり、この名だたる製鉄集団が会津で製鉄を行ったとなれば、古代史上稀なことである。(『青巌と高寺伝承』)

猪苗代湖を囲む山々には金山など鉱物を連想させる地名も多い。
会津盆地では、8世紀会津郡衙の指示により「砂鉄」の収集が行われていたというから、砂鉄を原料としたいわゆる「たたら製鉄」が盛んに行われていたことは間違いないだろう。

ここで私は、萩生田氏の指摘する製鉄集団の集結した場所が、猪苗代湖畔であることに注目したい。


褐鉄鉱による古代製鉄

『古代の鉄と神々』(真弓常忠著)は、「褐鉄鉱」を原料とした製鉄が弥生時代に始まったとしている。

「褐鉄鉱」とは、沼沢・湖沼・湿原などに生えるイネ科植物である葦(ヨシ・アシ)などの根にできる団塊のことだ。
水辺の植物の根を水中の鉄分が徐々に包んで、根は渇死し周囲に水酸化鉄を主とした固い外皮ができる。

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          (水辺の植物、葦(ヨシ・アシ))

団塊の内部は、浸透した地下水に溶けて内核が脱水・収縮して外壁から分離し、振るとチャラチャラ音の発するものができる。
これは鳴石・鈴石、あるいは高師小僧と称するが、太古はこれを「スズ」と称していたという。

信濃の国を表す枕詞「みすずかる信濃」の「すず」は、まさに鉄の原料としての「スズ」つまり「褐鉄鉱」のことである。
諏訪湖やその他の湿地帯では、ヨシなどのイネ科の植物が多く自生する。
鉄が非常に貴重だった古代において、人々は褐鉄鉱の成長を祈りその祈りが神事となった。

褐鉄鉱を原料とした製鉄は、砂鉄(1525度以上)よりも低温(1000度程度)で還元できるから、すでに青銅器の鋳造を行っていた弥生人には十分行えるものだった。

鉄製品は酸化腐食が進むので、弥生時代の鉄製品の出土例は非常に少ないが、鉄は銅と併存したか、むしろ鉄の方が早く製品化した可能性も大きいという。
露天タタラだから、その形跡はすぐに消えてしまうが、タタラ場跡がないからといって製鉄が行われていなかったとは言えない。
銅鐸は、鋳造遺跡がなくとも弥生時代の製品に間違いないのと同様である。


猪苗代湖に群生する「葦(よし)」

「猪苗代湖岸ヨシ刈り県民ボランティア」では、湖のヨシを定期的に刈り取っている。
ヨシは、湖の汚れを吸収して水をきれいにする働きがあるが、放置すると水質悪化の原因にもなるためらしい。

猪苗代湖には、豊富なヨシが自生していることがわかるが、古代の猪苗代湖にもヨシが大量に自生し、製鉄材料となる褐鉄鉱が唸るほど実っていたと考えてみる。
(続く)

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     (褐鉄鉱:葦の根に水酸化鉄が沈殿して出来た鉱物)


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