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ラーメン「上海」 昭和40年代の記憶

祖父の家に着くのはいつも昼時だった。
叔母はさっそく、ラーメン屋へ出前の電話を入れ、最後に必ず「早く持ってきてくなんしょ!」と、店主に軽いプレッシャーをかけた。

ラーメン「上海」はすぐ隣だったから、換気扇からの匂いと音で、調理の段取りが分かった。
そろそろだなと思い、居間へいくと、ちょうど店主が岡持ちをもって現れた。

澄んだスープで、あっさりした醤油味。
麺は太くてちじれ麵だから、今思えば、あれはまさしく「喜多方ラーメン」だった。

ところで、喜多方ラーメンのルーツは、昭和初期にさかのぼるらしい。
浙江省出身の潘さんという人が、喜多方北部の銅山で働く叔父を頼りにやってきたが、仕事がない。中華麺でも売ることにして、見よう見まねで作ったのが始まり、との説がある。

昭和30年代には、代表格「まこと食堂」「坂内食堂」などが創業した。
いわゆる「喜多方ラーメン」のブレイクは、昭和58年のことだ。

私のラーメン「上海」の思い出は、そのブレイクの10年ほど前のことだ。
つまり「太・ちじれ麺、あっさり味」の喜多方ラーメン文化は、昭和40年代には、すでに会津盆地を南下し、高田町まで伝播していたのだ。
いや、更に会津盆地を起点として、その味は、東は白河、西は新潟方面へも伝播していった可能性も否定できない。
これはまさに、四道将軍伝説の逆の経路ではないか。

ところで、「上海」という店名が妙に気になる。
会津という豪雪地帯にありながらも、中国大陸の名称にこだわったワケは、いったいなんなのだろう。
私にはわかった気がした。そう、あの潘さんだ。

浙江省や安徽省あたりの中国人は、出身地を「上海」と言うことが多い。
正直に地方名を答えてもわからないだろうし、また、あれこれ説明するのも面倒と考えるからだ。
都会の名前を出せば、少々箔がつくという下心もある。

そして、当時の潘さんもそうだった。
おそらく最初は、粗末な店構えだったろう。
それでも、食欲をそそる匂いと、重量感のある麺、うまく絡みつくあっさりした醤油味は、労働者を中心に評判を呼び、いつしか行列のできる店になっていた。

初見の客からは、出身地を訪ねられることもある。
そんな時、潘さんはきまって、
「わたしは、しゃんはいからきました・・」とおぼつかない日本語で答えた。
毎日明るく、懸命に麺を打ち、店を切り盛りするその姿は、
いつしか喜多方人の心をも、わしづかみにしていった。

高田町のあのラーメン店を立ち上げた主は、子供のころからその店に通っていたのではないか。
潘さんは憧れの存在でもあった。
いつかは自分の店を持ち、この店と同じ味のラーメンを提供しようと心に決めていたのだ。
そんなことを、潘さんへ伝えることもできず、ただただ試行錯誤しながらその味を追求し、せっせと貯金に励んだ。
開店の目途がついたころ、晩酌の時に、ふと思いついた店名があった。
「上海」
主は、これだ!と思った。
それは、潘さんの出身地だったからだ。
潘さんの笑顔を思い出しながら、主は天井を眺めた。
きっとうまくいくような気がして、丁寧に手を合わせた。
(妄想終了)

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