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『喜多方・熊野神社と高麗橋』

11月の中旬、喜多方の新宮熊野神社(慶徳町新宮)は、ご神木の大イチョウが見事に色づいていた。神社創建の際に植えられ、樹齢は800年以上と伝わるが、拝殿「長床(ながとこ)」と並ぶ景観は実に壮観だ。

国の重要文化財「長床」は、熊野信仰修験道にともなう特殊な建物である。平安末期から鎌倉初期の建立で、44本の太い柱が支える吹き抜けの構造だが、1611年の大地震で倒壊した後、幾度の補修により現在に至っている。

会津風土記などによると、当社は中世の隆盛期には東北における熊野信仰の一大拠点として多数の末社・霊堂、三密瑜伽(さんみつゆが)の道場を設け、三百余の宗徒、百余人の神職を常駐させたという。

(長床)

新宮熊野神社は、新宮とは称しながらも、本宮・新宮・那智の熊野三山を祀っている。奥の石段をのぼった山の中腹に三殿が並列して建ち、中央が新宮社、左が那智宮社、右が本宮社であるが、熊野造りが三社併置されている大規模遺構は、県内唯一だという。

1055年に源頼義が熊野堂村(会津若松市)に熊野神社を勧請したことが当社の始まりとされる。その34年後、頼義の子・義家が、現在の地に熊野新宮社を遷座・造営。この時、熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営するが、のちにこの2社は新宮社に遷され、現在の形になったと伝わる。

頼義の子・義家が熊野本宮を遷座したという場所は、新宮熊野神社から北へ車で15分の熊野神社として今も残る。熊野信仰の基礎として、当社が本宮の役割を果たしたと思うと感慨深いが、すぐそばの沢にかけられた橋に「高麗橋跡」と記されているから、なおさら興味をかきたてられる場所なのだ。

(高麗橋跡)

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高麗とは、10世紀半ばに半島を統一した国だが、高句(こうく)麗(り)の別称でもあり、「こうらい」「こま」とも呼ばれ、のちに「こま」から「くま」にも転じる。高句麗は、紀元前後に誕生し4世紀初めに朝鮮北部を領有すると、新羅、百済と並び朝鮮半島三国時代を形成した。

『喜多方市史1』に興味深い記載があった。岩沢(高麗橋跡があった場所)の熊野神社は、はじめ岩沢集落より2キロほど西の山中、樟(くぬぎ)平(だいら)に鎮座していて、そこからは小布瀬(おふせ)郷(山都郡・高郷村)を経て越後国へ通じる街道「塩道」が通っていた。岩沢集落には「杉本カラケ」という字名(あざな)があり、そこからは須恵器が出土している。カラケとは、素焼きの陶器を意味する「かわらけ」のことで、須恵器のことをそのように表現したと思われる。当社は16世紀後半まで社領があり繁栄し、秋の御祭りの市はにぎわい、麻・苧(カラムシ)などを商売した。そして、岩沢集落の「高麗橋」だけではなく、新宮熊野神社の鳥居の前に掛かる橋も「高麗橋」と呼ばれているというのである。

熊野神社と高麗の関係にがぜん興味がわいてくるが、ひとまずの歴史事情をまとめてみよう。

高麗橋という名称は日本各地に残るが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来する、あるいは、朝鮮との通商の中心地に由来するなど諸説あるがはっきりしない。

岩沢集落から出土したという須恵器の年代は判らないが、須恵器の起源は朝鮮半島とされ、日本では古墳時代から生産された。5世紀末~6世紀代になると列島各地に須恵器窯がつくられ、東北地方中部・南部でも9世紀には盛んに製作されたがやがて衰退し、10世紀には生産が終息した。

新宮熊野神社や岩沢集落の東には、飯豊山地を水源とする濁川が流れるが、この濁川は阿賀川と合流し、新潟・日本海をつなぐ大動脈となる。会津地方は太古から大陸や半島との交易が認められるが、それはおもに阿賀川を利用したと考えられている。

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話を新宮熊野神社に戻す。境内の宝物殿には国の重要文化財や重要美術品が多く展示されているが、私が最も注目したのは、休憩所の壁にあった「熊野神社御神像」の写真だ。

新宮社に安置されているこの男神坐像と女神坐像は、60センチほどの一木造りである。男神は頭部に大きい冠を頂き、変形の袍(ほう)衣(い)に身を包み、胸前に手を組んでいる。女神は中央で分けた髪が背中まで伸びているが、どちらも少し目じりが上がった表情をしている。

古代史研究家の金達寿氏によれば、この神像は、能登(石川県七尾市)にある久麻加夫都阿(くまかぶとあ)良(ら)加志比(かしひ)古(こ)神社の男神像とよく似ているという。(『日本の中の朝鮮文化12)』)

(新宮熊野神社 神像の画像)

久麻加夫都阿良加志比古神社は、かつて越前国能登郡の熊木(くまき)郷の総社だった。熊木とは高麗来(くまき)の意味だが、社号のはじめの久(く)麻(ま)からも、当社が高麗から渡来した神を祀ることがわかる。祭神は、久麻加夫都阿良加志比古神と都奴加阿良斯止(つぬがあらしと)神で、この二柱の神は同一神ともされる。ツヌガアラシトとは『日本書紀』に伝わる古代朝鮮・加羅(から)国王の息子なのだ。

崇神天皇のとき、額に角の生えたツヌガアラシトは、船で穴門(あなと)(山口県)から出雲国を経て笥(けひ)飯浦(うら)(敦賀市気比(けひ)神社付近)につき、この地を角(つぬ)鹿(が)と名づけた。角鹿はのちに敦賀(つるが)の地名になったと伝えられる。

ところで、ツヌガアラシトは角が生えた、奇妙な存在として伝承されているのはなぜか。角といえば鬼の姿が目に浮かんでくる。つまり古代朝鮮から鬼がやってきたと解釈できるが、鬼とは、ヤマト政権からすれば、まつろわぬ民(従わない民)でもある。さらに当時の朝鮮は製鉄が盛んな地域であったことを重ね合わせてみよう。私は本稿『鬼渡神社と山の民の足跡』で、会津へやってきた古代製鉄民のことを描いたが、そのルーツがツヌガアラシトに関わるのではないかとも思えてきた。

さて、次回も喜多方の地から古代の歴史を考えてみたい。

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