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自分のことを書く時に気を付けたいと思ったこと

昨日、生湯葉シホさんのこのnoteを読んでから、気を付けないととずっと心に残っていて、今日もそのことを考えていたので書きます。

私が印象に残った箇所を下記に引用します。

特に、学習意欲の強い人やサービス精神の旺盛な人は、他者から聞いた物語(たとえば「家族モデル」に沿ったエピソード)や自分自身でこしらえた物語(たとえばインタビュー用のネタのようなもの)を語り続けるうちにそれが固定化されてしまい、自分が過去に“本当に”そう感じていたかのように思ったり、自分のなかで未消化のはずのできごとがなにかをきっかけに劇的に変化・昇華されたという感じ方をしてしまったりする危険性が高いように思う。
「話したら壊れちゃいそうなことは話さなくて大丈夫です」
言うまでもなく、この話はインタビューを受ける立場の人にだけ向けて書いているわけではない。自分の体験を人に語ったり、それをエッセイのような文章にしたりするとき、私たちは自分でつくった物語に飲み込まれてしまっていることがないだろうか、という話をしたい。
ただひとつ強めに言いたいのは、私は(そしてすべての書き手は)文章というコンテンツを生み出すことはあっても、コンテンツそのものではないということだ。
たとえば誰かが書き手の(あなたの)個人的なエッセイを読んで「おまえは甘えているだけのひきこもりだ」と言ってきたとしても、「つらい思いをしましたね。その体験はパワハラの被害にあたるのではないですか」と言ってきたとしても、書き手自身がその意見を内面化させて「ひきこもり」や「パワハラの被害者」になる必要は、自分が望まない限り一切ない。  人の言葉から新しい視点を得ることは大事だけれど、それと同じくらい、他者からの要請や、他者のためにある物語を素直に飲み込みすぎない注意力のようなものも大切だと思う(私は自分の書いたエッセイを「自分のことみたいだ」と言っていただけると本当にうれしいのだけど、同時に、書いてあることのすべてを読んだかたが内面化しようと思いませんように、とちょっと心配になったりするご感想もあったりします)。   もしこれを読んでいる人がこれから自分の体験を「書く」「語る」ことがあるのなら、自分は誰かからの要請を内面化していないだろうか、これをいまから書く/語ることで本当に傷つかないだろうか、と自問自答してほしい、と思う。
いちど語った言葉は死んで固定化されてしまうけれど、語り手は生きていて、生きているということは変わっていくということだ。変わったなら、変わっていく過程をまた語りなおせばいい。だからどうか、ひとつの物語だけに縛られることは選ばないでほしい。

自分のことを掘り下げて書こうとした時に、他者から期待されているような物語に変えてしまったりはしないだろうか?ということが気がかりなのですが、実際に誰かと話していてそういうことはあります。「それってこういうことだよね?」と言われたことが自分の気持ちとはちょっと違うと思っても、そっち寄りの話にしてしまったりして、最終的には自分の思いとは違う別の話になってしまうことがあります。

生湯葉さんの「変わったなら、変わっていく過程をまた語りなおせばいい。だからどうか、ひとつの物語だけに縛られることは選ばないでほしい。」

という言葉に希望を感じました。気持ちが変わったならまた書き直せばいいんだ、と思えたことがこれから書いていく時に支えになると思いました。

生湯葉シホさん、ありがとうございます‼️


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