見出し画像

『Tokyo発シガ行き➡︎』 (2019年8月号アーカイヴ/夏の番外編)「生き死ぬるもの双方に光を」

(まずは出力してアナログにお楽しみになりたい方の為の原稿を)

なお本作は「夏の番外編」としまして、この番外編以降、通し番号がなくなり、何年何月号、というナンバリングになりました、よろしくどうぞ。

がんこA3.8月

この冊子はA4にプリントされたものをペキペキ折って一箇所に切り目を入れるだけで冊子になるスグレモノです。笑。しかし!2021年現在の組版に慣れている方、この頃”がんこエッセイ”は黎明期。冊子字の大きさ小さくて読みにくい上に、縦書きなのに右側綴じです、すみません💦

✴︎ ✴︎ アーカイヴの前に ✴︎ ✴︎
内容を貼る前に、ひとつだけいいだろうか。わたしは個人的にこの号と、この次の号[2019年9月号]のアーカイヴに実は気が乗らない。なぜならこの一連の卑弥呼案件でわたしは思い出すのも嫌なくらいに酷い思いを当日したからである。ひとつじゃなく、連続していっぱいあった。エッセイには次号にやんわりと書いたが、いわゆる村八分という言葉がぴったりの体験である。その中にはほんとうはわたしに優しく接したいけど、いま自分が生息している世界との兼ね合いにおいてそうできない、という感じの人もいて、その人はわたしがさよならを言うとき追いかけてきて言葉を言った。言葉の内容に意味はなくて、わたしのことを自分は悪くは思っていないと表現する行為だった。その流れ全体がとても村八分的だった。小学生の頃の派閥を思い出した。

生まれ育った町からこんな仕打ちを受けるとは思わなかった。わたしにとって守山を大嫌いになってしまうような出来事だった。
だから40歳になった2019年、このクソみたいな1日の次の日に、わたしは2度目の上京を決意した。精神的な2度目である。今度こそもう2度と振り返らない、今後どれだけ売れても2度とここら周りのプロジェクトには関わらない。一度はそう決めたわたしが、それでも今も「Tokyo発シガ行⤴︎」をこうして書いているのは、みなさまがいるからです。売れる本を1冊も出せてないのに、家族のようにわたしを愛し応援してくれている、がんこ堂のみなさん。そして毎回楽しみにしてくれているこのエッセイの読者のみなさん。トークショー「Gifted」に来てくれたひとたち。古い幼馴染や旧友たち。その存在がわたしと守山を繋ぎ留めてくれている。

画像2

村八分の理由。何がその人たちの琴線に触れたのかも、わたしは多分わかっている。なので内容に関して細かく書くつもりはないが、一つだけ書く。
登壇する前にこう訊かれた。
「今日は市長やらいろんな人も来ているのですが、政治的な発言をするつもりではないですよね?」
全員ではなくわたしだけ訊かれた。なるほど。そもそもわたしは「わたしのような人間でも地元に何かできることはないものか」という純粋な動機でここにいるとは微塵も思われていないのだな。

加えていうなら尋ねた人間はわたしを誰かわかってないみたいやったけど、その子はわたしの同級生の弟だった。わたしに政治的発言の意図を確認した人のお兄ちゃんとわたし、あともう一人女の子、この3人は生まれた日が同じで、揃って「おぎゃあ」と相成り、生まれたての時期を守山市民病院に3人並んで過ごしたある意味特別な間柄だった。今から添付するエッセイの中で、村上春樹が、エピファニーを受けたと予想される、それは、1979年4月1日の出来事だった。その、よくよく知っている男の子の弟が他人行儀に「政治発言はなさいませんよね」と確認してきた、それら全て、忌々しいくらいに嫌気がさす出来事だった。がんこ堂さんが作ってくれた大きな”ノボリ”がなかったらわたしはその場で登壇を拒否し、降板していただろう。
滅多に見せないが、わたしにはそういうことを平気でできてしまう激しさと豪胆さが、実はある。

画像11

加えてもう一つだけよろしいか。笑。
もしかして、この「Tokyo発シガ行⤴︎」だけでなく、その他のマガジンや記事も、くまなく読んでくれている友人や知人がいるかとも思うし、そしたらもしかして「モカコ、最近なんか、キツイことばっか書いてるけどどうした!?」ってなるかなと思っている。最近になってわたしの記事に出会った人はこれがわたしみたいに思うだろうと思うけど、わたしは基本、文句とか「フザケンナ!」案件を、書かない人間である。記事の中で誰かを糾弾したり、批判したり、そもそもそういう不快な出来事を書き残したり、しない人間である。でも2021年になって、それも少し違うのではないか、と思い始めた。嫌な思いをしたことや、消化しきれない体験について、伏せ続けるのも違うのではないかと。それで今はなるべく正直に、文句が言いたいと思ったら文句を言って、腹がたてば腹たつと言うようにしてみている。結果、抑え込んでいた怒りのパレードになっていますが(笑)ほぼ全部を書ききったので、火はまもなく鎮まるでしょう。

そんなわけで以下、アーカイヴ。この記事の内容がわたしが登壇した際に話そうと思っていたことであります。スピーチは途中で切られましたが、村上春樹好きの市長から全文が読みたいと図書館の館長さんを通じて連絡いただきましたので、謹呈しました。わたしのスピーチは政治家に欲された、面白い内容だったし、政治的ではなかったからね。(皮肉)

✴︎ ✴︎ 以下アーカイヴ ✴︎ ✴︎

ーー生き死ぬるもの双方に光をーー

画像5

2019年1月1日、新しい年を迎えた夕暮れに、わたしは伊勢遺跡の平たい土の上に立っていた。チャリンコを、ほんの15分ほども漕げば辿りつくこの場所に、自分は随分と遠まわりをしたのだ。
鹿児島の霧島神宮から始まったこの一連の旅。霧島は出雲を連れ、出雲はアラビヤを、アラビヤはギリシャを連れてきた。
遠い異国のリワ砂漠で、エーゲ海の島で、人は一体どこからきたのか、世界の真実はどこにあるのか、懸命に探してきたけれど、よく先駆者たちがそう言うよう、大切なものはすぐそばにあったのだ。何かを守っている、守り山、そう、馴れ親しみ生まれたこの守山の土地に。答えはここにあったのに。気がつかなかったんだね。

画像5

伊勢遺跡が田んぼの下から発見されたのは昭和54年とパンフレットに書かれている。世紀の大発見が、しかし以外と地味にこの守山の地に発生した頃、そこから歩いて数十分の、駅前コーポラスでわたしも発生、守山市民病院にてオギャアと誕生した。
伊勢遺跡とわたし。同じ年にわたし達はこの世界に顕在化した。
このような角度から考えてみると、それから40年経った今、わたしと伊勢遺跡の間にこのようにある種の交差が、卑弥呼という言葉によって結ばれるとしても、意外と変な話じゃない。

「生き死ぬるもの双方に光を与えよ」

リワ砂漠の朝、わたしに降ってきたこの言葉がわたしの人生を変えた。
今でもあれはなんだったのか、空耳だったのか、空感覚だったのか、不思議に思う。わたしはバナナを食べ終わっていて、今から洋なしを食べるところだった。

一つのプレートの上にバナナの皮という死んだものと、みずみずしく朝日に照らされた「洋なし」という“いのち”が共存していた。生きているものと死んでいるものが同じ構図の中に配置されている、こういう構図を「メメントモリ」と言うのだと教えてくれたのは、一緒にアラビヤに行った俳句を読む歌人の男の子だった。前日わたし達はリワ砂漠の果てで西に沈むあまりに大きくあまりに真っ赤な太陽を一緒に眺め、このホテルに一泊。わたし達は一応国賓であったので、落ち着いた佇まいの贅沢な部屋を一人1室与えられていた。

画像6


そういえば。記憶を辿るうちにふっと思い出したことがある。あの朝、部屋で、iPhoneのチャージャーがショートしたのだった。変圧器を必要としないはずのチャージャーが真っ黒こげになって、そしてそのすぐ後だか前だかに、あの言葉は降ってきたのである。

わたしがもし村上春樹だとしたら、この一連の出来事を、エピファニーと呼ぶのだろう。エピファニー、ある種の啓示。突然じぶんの手のひらに世界が託した、贈り物。

村上春樹は神宮球場で、バッターが球を打つ、その乾いた音を聞いた時“それ”を受け取ったとエッセイに書いていた。“それ”は1978年のある晴れた日で彼は“それ”を受け取った後球場を後にしその足で原稿用紙と万年筆を買い「風の歌を聴け」を書き上げた。

彼が受け取ったエピファニーというのは自分は小説というものを書く人間になり、そしてある程度の成功を収めるのだろう、というものだった。そう小説というものを書いていく星、のようなもの。彼は翌年1979年4月のあるうららかな日曜に表参道の同潤会アパート前で鳩を拾い、それを交番に届けた際にもさらに強いエピファニーを受け取った。それは自分は間違いなく群像の新人賞を受賞するだろう、と言うものだった。

わたしが受け取ったエピファニーは少しそれとは違ってある種の新しい「概念」のようなものだった。感覚、というか概念、というか、価値観、のようなもの。そう「パラダイム」と言ってみよう。

リワ


「生き死ぬるもの、双方に、光を与えよ」
生き死ぬるもの双方に、光を。

この「死ぬるもの」という言葉の奇妙が、わたしをこの新しい探求の日々に連れてきた。光を与えるべき「死ぬるもの」とは何を指すのか。死にゆくもの、なのか、もう死んでいる、ものなのか、それとも死んだようなもの、なのか。プレートの上でバナナはどんどんしなびていく。ナイフを洋なしに刺すとぐしゃり、と音をたて果汁はナイフをつたい、わたしの手まで流れてくる。洋なしは生きている。それを舐めながら口に出して呟いてみる。生き、死ぬるもの、双方に、光を。

この日を境にわたしの人生は変わってしまった。一世を風靡するためにアラビヤに来たのに。

出発の直前、慎太郎さんは、握手をした際、わたしの手をぐっと強く握りそう言ったのだった。「芸術家たるもの、一世を風靡せよ」それは美しく強い言葉で、あの瞬間に石原慎太郎という人は政治家ではなく、一人の確固たる芸術家であるのだと悟った。一世を風靡した人の説得力がそこにはあって、わたしはこの言葉に背中を押されながら、何かの「通過点」になるはずのアヤビヤの旅に向かってゲートをくぐり飛行機に乗り込んだ。けれどアラビヤは通過点ではなかった。
これはある種の突き当たり。
アヤビヤでメメントモリとエピファニーに遭遇。
その遭遇を機にわたしは、芸術家として一斉を風靡することなど、マジでどうでもいいと思ってしまう人になってしまった。ほんの数秒の不思議体験で。芥川賞にも直木賞にもベストセラーにも、興味がなくなってしまった。わたしが知りたいのは、光を与えるべき双方、特にその死ぬるもの、についてのみ。2015年の1月のことだった。それからわたしはずっと、光を与えるべき双方について考えて生きている。シャルジャという古い町のイスラム博物館の天文学の部屋で。ギリシャのクレタ島のクノッソス宮殿で。あるいはアトランティスの人魚が眠る、サントリーニ島のエーゲ海のふち、黒焦げの大きな岩の上で。

画像8

おそらく伊勢遺跡やこの地の下で静かに眠らされている秘密、いたのかいないのかわからない卑弥呼、巫女、もしくは女王、これらもきっと、光を与えるべき「死ぬるもの」であるのだろう。眠らされ、死んだも同然であったものたち。

けれど誰かがその存在を見つけ昭和54年に真実の一部を掘り起こした。
同じ年にわたしはこの守山に発生し、村上春樹は風の歌を聴けを書き作家になった。(そしてその発生を共有した人間の弟が登壇前のわたしに政治的意図を確認。これもまたある種のエピファニーたりえるか)

昭和54年、あるいは1979年の静かな地殻変動。
掘り起こされたものには光を与えなくてはならない。
そうこの“もりやま卑弥呼”もわたしにとっては通過点ではなく突き当たり。圧倒的なひとつの起点に旗を立てなくてはならない。月に到達したアームストロング船長のように。
いつかまたそれ自体をでっち上げだと、でっち上げる人が現れたとしても。
「ヒューストン、こちらトゥインキリティ。静けさの基地に鷲は舞い降りた」
ひとつの起点に、旗を立てなければならない。アラビヤでの最後の昼食の時にジャマール閣下は言った。

「僕たち小説家と詩人は、世界が滅びるその日ですらも、滅びゆく左手から緑を右手に、そしてそれをプラントしなければならない。たとえ世界が滅びるとしても、常に進行形で、プラントしなければ、ならない。そのために僕たちは筆を握っていて、それを伝えるために僕たちは君たちをはるばるここへ呼んだのです、そしてその日は、そんなに遠くないのです」

男の子たちは、UAEという国の上層部の人間たちがこんな陰謀論みたいなことを言うなんてと引いていたけれど、わたしにはその言葉はすっと入ってきた。世界が滅ぶことを止められなければ終わりではないのだ。
その瞬間に何かをその右手から放つことができれば、いつかまた、巨神兵が眠る空中の丘のように、人がいなくともまた何かが芽吹き地球は青く茂ってゆく。

画像9

「守山ってね、もともとは森に山って書いて森山って言ったらしいよ」
これは半分は作り話。そう教えてくれた人を信じているけれど、どこにも証拠はない。そしてその部分よりもわたしにとって必要な言葉はそのあとの部分だった。
「森山はいつから守る方の山になったのかな」
その人は言った。
「一体どんな秘密を、その地に、守っているのかな」
わたしはそれを知りたい。

画像10


なかじま・もかこ/ 守山市出身。1979年生まれ。附属中学→石山高校。2009年「蝶番」にて新潮社よりデビュー。

画像11

読んで貰えばわかるように、政治的意図は一切ありません💫

関係ないようで関係ある動画を載せておきます〜💫🌌

がんこエッセイの経費に充てたいのでサポート大変ありがたいです!