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【時雨こぼれ話①】 母の打撃とダイヤ(前編)

どうも。桃果子デス。この「こぼれ話」は「かぐらむら」に掲載された全6話では語りきれずに「こぼれ」たエピソードなんかを、軽く載せていこうというやつで、しかし軽く始めるつもりが(あのエピソードってどの資料の何ページにあったっけ?)とか始めると膨大な資料から「それ」を探さなくてはならぬ、意外とそれに時間がかかって「軽く」は始められないことに気づき、遅ればせながら本日、手元の資料を再び一気にざっと目を通し(これこれ!)というのに付箋を貼って、いわゆる「下ごしらえ」を完了してみた。
なのでここからはスムーズに提供できるのではと思っているところ。

なお当初の予定では1話から順に「こぼれ」を追いかけたいと思っていたが、本日「時雨美人伝」の初稿を見直すと「こぼれ」というよりは不要なシーンが多く、まあだから割愛だよね、と思いなおし、新たにこの連載を構築することにした。と、言ってもあまりカチカチに段取るとその段取りに対して自分の筆が億劫になるので、あまり決めないでフィーリングでやっていこうと思う。なのでいきなりラストからで悪いのだけれど、逆に読者の方にとっては記憶に新しい最終号の「こぼれ」を今日は一つ掬ってみよう。

最終回の最後にわたしは、時雨さんの遺稿となった「渡りきらぬ橋」の最後の部分を掲載した。この作品は本当に遺稿で、連載であったが最終回の掲載は時雨さんの死後である。今は亡き女史のあの文章を、当時の人々はどのような思いで手にし、文字を追ったのであろうか。

その中にこんな一文があった。

「あたしはまっしぐらに、所信のあるところへ、火のような情熱をもって突き進んでいった。だが母の打撃は見て過ごされなかった」

この「母の打撃」に関して今日はお話したいと思う。

テーマを絞り込む必要があった全6回の「時雨美人伝」では【劇作家】としての長谷川時雨の側面に関してあまり大きく打ち出せなかったのだが、
29歳で女性初の歌舞伎の劇作を担当し、その上演で華々しくデビューした長谷川時雨は30代前半、まさに「芝居の人」であった。当時まだ三上於菟吉と出会う前、これも美人伝では端折ったのだが中谷徳太郎という青年作家と一緒に「シバヰ」という雑誌を創刊していたし(方向性の違い及び、互いに恋愛関係にあったため雑誌そのものが破綻)、生涯の友であった6代目菊五郎とはよく組んで歌舞伎を上演していた。

 こぼれ、のさらにこぼれ話であるが、三上於菟吉以前に長谷川時雨は本意ではない結婚をしていたが、それ以外でめぼしい恋愛というと中谷徳太郎その人である。けれどもどの文献や評伝にも多少プラトニックに近い響きでそれらは書かれておりーーおそらくそんなことはないと思うのだが 笑ーー三上於菟吉と長谷川時雨のように大花火を打ち上げることなく、その恋の火は消えてしまう。三上於菟吉と付き合いを始めて以降、パタリ、と芝居に関わらなくなった時雨だが実は親しい人に「三上が”しばや”の雰囲気を好かないもので」と話している。きっとこれは三上さんの嫉妬だろうとわたしは思っている。しばや、の空気が好きじゃないというより、元彼を感じる世界、が嫌だったのではないだろうか。

⤴︎ 写真は「スーパーレディ・長谷川時雨(森下真理 著)」より拝借。

ともかくそんな全盛期の時雨の歩みを止めたのが時雨が「憤死しはせぬかと思うばかりの目にあって」と綴った「母の打撃」である。

稽古でさんざんな目にあった上に家に帰ってからは、弟さんの病気を看護するやら、その赤ちゃんをお湯に入れるやら、まだまだ夜中にお乳を呑ませるやら、寝ぼけて赤ちゃんを倒(さか)さに抱かぬがもっけの幸というような時雨さんの世話場も一段あるが・・・・
                                           ( 芝居の同志でもあった岡田八千代の記より)

当時時雨の母は箱根の旅館経営が大成功しており、その手腕を見込まれて、
芝公園内にある料亭「紅葉館」の再建を引き受けることとなった。
しかしこの「紅葉館」は有名な料亭であり株式の組織であったこともあり、時雨の母である多喜さんの手腕だけでは再建できず、彼女をスカウトした人間が亡くなると経営から手を引かざるをえなくなった。そして紅葉館をやめた多喜は、目が届かなくなっていた箱根の新玉も手放すこととなり二重の打撃を受けた。<憤死しはせぬかと思うばかりの......>そこへ追い打ちをかけるように父が痛風を病み、弟の若い奥さんが赤ちゃんを残したまま亡くなった。この赤ちゃんが、時雨さんが手塩にかけて育てた甥の仁さんで、長谷川時雨研究の大きなる協力者でもあり、生き証人となられ、現在わたしがこうして時雨さんのことを書くことができているのである。

とにかくこの一家の非常事態に、時雨さんは立ち上がった。いや、連載を一緒に過ごしてくれた読者の皆様ならもうおわかりだと思うのだが、彼女は自分を後回しにして家族のために立ち上がらざるを得なかったし、またそういう人なのである。

時雨の尽力で母、多喜は、鶴見に割烹旅館「花香苑(はなかえん)」をオープン。それに伴い時雨も佃島(つくだじま)を引き払い、鶴見に近い生麦というところへ父と幼い甥を連れて引っ越した。開業2カ月目に時雨は新聞に載ったインタビューで、自分は商売など嫌いなのだが母のためにじっとしれいられなかった、と語っている。
(でしょうね、と、もはや”時雨美人伝”の読者の皆さまは頷いているのではないでしょうか 笑)

当時時雨さんは「美人伝」の連載や出版はあって、それらは新聞で連載されていたので知名度はキープしていたものの、元役者のわたしはよくわかるのですが芝居をやる時間はなく、演劇からは遠ざからざるをえなかった日々なのだと思います。こう、バタバタと慌ただしい日々の中で家族と過ごし、
机の前に座っていても板前が留守の時は台所に立ち諸々のことを済ませ、
しかし、

<幾時間かの後に手が抜けて書斎に帰る時には、気の抜けた、もう魂の遊びにいってしまった藻抜けの空の、空しい心地になって、ただポカンと机の前にかえったというに過ぎなくなります>

というこんな具合であった。自分も物書きだからわかるのだが「書き物」というのは自分の奥へ奥へ入っていって行うものなので、こう、野暮用に駆り出されてそれを終え「ハイどうぞ」と言われてもそのまた「奥へ奥へ」入る時間が必要で、ようやくその心の奥の書斎に辿り着いたあたりに、また違う野暮用で現実世界に引き戻される、時雨さんはそんなことを繰り返しでいたのだろうと思います。そんな日々の中、長谷川時雨の元へ届いた手紙と著書、それが「春光の下に」であり、三上於菟吉その人の「存在」でもあったわけなのです。鶴見に「花香苑(はなかえん)」がオープンしたのと、「春光の下に」が時雨の元に届いたのはなんと同じ年、長谷川時雨36歳、今から思えば転機の年だった。

このような現状を抱えながら時雨さんは三上於菟吉との恋に没頭していき、神楽坂と鶴見を日々往き来するようになるのである。
余談であるが先日鶴見の時雨さんのお墓にお参りしたのであるが、やっぱり神楽坂から鶴見ってとても遠くて「よっこらしょ」という距離、それを日々往き来しながら、わたしが今日ここに書き綴った一家の諸々のこともこなす、それが出来たのはやはり、三上於菟吉との間にきっと激的な!燃える恋愛があったからなんだろうなって、みんな思いますよね。笑。

この物語とダイヤの物語はつながっていくのですが、
ダイヤの物語はまた次回。では。

⬛︎ 評伝 長谷川時雨 / 岩橋邦枝 著
「こぼれ話」では連載中にお世話になった文献たちも紹介していきたいと思います。今日書いた、時雨さんの母の打撃についてはほとんどこの文献から引用に近い形で書かせていただいています。岩橋邦枝さんのタッチはいつも冷静であり平等でありましたので、つい時雨さんサイドに傾きがちなわたしの脳内をいつも「0」(ゼロ)に戻してくださり、「限りなく事実に近い情報」を得ることができました、ありがとうございます!

【時雨こぼれ話①】母の打撃とダイヤ(後編)に続く➡︎


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