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雨、今日はあなたのせいで片頭痛だから怠惰を許しておくれ(なんでもない日に短歌でタイトルをつける日記1/15~1/19)

好きな歌集から短歌を、毎日の日記のタイトルに頂いて、一週間分の日記を書いています。たまに自分で短歌を詠むこともあります。

15日

本当のことを言わずに済むくらいまじめな顔で話をしよう

『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである』枡野浩一

腹痛で仕事を休む。休む理由については嘘はついてないが、一般的には我慢して出勤する人の方が多いだろうという程度の腹痛だ。そこで、軽い体調不良の日に我慢してまじめに出勤する方々に向けて、先週まで読んでいた『マルクス生を呑み込む資本主義』の一節を引用して、不まじめに説得をしたい。

テイラーは説く、確かに身体動作の科学的管理は労働者に苦痛をもたらすが、 その見返りはあるのだ、と。見返りとは高賃金であるが、マルクスの用語に置き換えて言えば、 生産性の向上によって相対的剰余価値が増大し、その一部が労働者にも分配されるということである。すでに見たことからわかるように、この剰余価値の分配は安定したものではない。「特別剰余価値」の概念が示すように、 それは時限的なものであって、社会全体の生産力が上昇すれば、すぐに失われる。したがって、賃労働者は生産性の向上を目指す絶えざる競争に巻き込まれ、それにつれて包摂の度合いは高まることになる。

P.110/『マルクス➖生を呑み込む資本主義』白井聡

まじめに働くことは、自分のみならず次世代の労働者の働き方さえも規定する。つまり、今日の労働の息苦しさは先人たちの(結果的に生産性に寄与していないという意味で)明らかに過剰な競争の結果である。

フォーディズムとは、労働者階級にとって一種の毒饅頭のごときものだった。十九世紀的な労働者は貧しくはあったが社畜ではなかった。フォーディズムにおいて、労働者階級は物質的に豊かにはなった一方で、生産過程においても、再生産(消費)過程においても、資本の論理を内面化するようになってしまう。資本の利益と労働者の自己利益が同一視されることにより、 剰余労働と自己のための労働が区別できず、すべての労働が自己のための労働に見えてしまうという資本制に特有の錯視が強化されることになる。

同P.112

仕事と自分の意思が概ね同じ方向を向いている賃労働者は幸せを謳歌してほしい。そうでない賃労働者はいい感じにバランスをとりつつ自己利益を考えよう。

半分は冗談だが、半分はまじめだ。そして、冗談の部分は自分の健康管理のためという、単純で至極まっとうな理由で補填できる。ムリした結果、本格的に体調を壊す可能性もあるし、そうなると病院に厄介になる可能性もあるし、そうなると医療費もかさむ。だから、休みたいときは休もう。
以上、まじめな顔で不まじめに話をしてみた結果である。
朝、休むことを決めたときは求人情報を見て、2月以降の仕事について考える1日にしようと思っていたが、それも何も進まないまま日が暮れてしまった。もしぼくと同じように1日を無為に過ごしてしまった人がいたら、ちょうど今日リリースされたこの曲を聴くといい。

16日

時間よりゆっくり落ちてくる枯れ葉 ここは何処 ここからは過去だよ

『音楽』岡野大嗣

正確に意味を読み取ることはできないが、画はなぜか想像できるような気がする。時間が止まっているような感覚のなかで、周囲がピンぼけし場所の感覚が曖昧になり、ただひらひらと落ちていく一片の枯れ葉だけが鮮明な画だ。地面についた瞬間が、それまで考えていたこととその先の明確な境界線となり、時間が動きだす。

コンビニで求人のフリーペーパーをもらい、カフェでページを繰る。求人なんてスマホで検索すればいくらでもあるし、カフェなんて入らずにテキトーな空き時間に探せよ、と自分にツッコミたくなるが、媒体も時間も明確な線引きをしなければ動き出せない、というのが自分のどうしようもない性質である。とはいえ、とりあえず求人をチェックしたんだから、一歩前進。

17日

これだけをやっておいたら大丈夫 やさしい嘘を神様にする

『水上バス浅草行き』岡本真帆

とりあえず、今までとは別の派遣会社に登録した。これだけやっておいたら大丈夫。あとは、派遣先を決めてもらうだけ。もちろん、嘘ではないけれど、はて?仕事探しってこういうことだっけ?

短歌は「やさしい嘘を神様にする」というフレーズが好きな一首。
むかし、自分で詠んだ「都合いいときだけ信じる数字って神様みたい ぼくバカみたい」という短歌をふと思い出した。無宗教とはいっても、日本人はとかく神様を信じている。日常の至る所に。

芥川賞、直木賞が発表された。芥川賞に九段理江さんの『東京都同情塔』、直木賞には河崎秋子さんの『ともぐい』と、万城目学さんの『八月の御所グラウンド』の2作品。 直木賞作品はさほど読んでいないが、芥川賞は最近はけっこう読むようにしているので、『東京都同情塔』も読みたい。同じく候補に挙がっていた川野芽生さんの『Blue』も買ってみようかしら。欲しい本がいっぱいありすぎて、困っている。2月以降の職が決まったら、散財しよう。

18日

雨、蜘蛛は乾いたままの橋の裏側をゆっくり渡っていった

『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』木下龍也、岡野大嗣

年が明けて3週間が経過しようとしているが、やっと2024年が始まった。
というのも、ジムに行ってなかった1月前半は、トレーニング以外の部分でもとことんダラけていたから、待ちに待ったフィットプレイスのオープンの日。

去年の1年間で胸筋や上腕二頭筋が多少は大きくなったが、一方でまったく変わらない前腕は今年の課題。あとは、デブ活でがんばって蓄えたお腹の脂肪を絞っていく所存である。どちらも、ジムで高重量を扱って鍛えるってより、粘り強く地道な努力が求められる部位ではあるけれど。

更衣室やロッカーの狭さに不安があったもののそれも杞憂で、新しいジムは想像以上によかった。生憎の雨だが、フィットプレイスがオープンした今日をリスタートの1日として今年もトレーニングに励みたい。

短歌は、雨に向かって話しかけているというのがまず変だが、そこで言及するのが橋の裏を行く蜘蛛。雨の日は、足下の水たまりや傘を打つ雨音を歌にしたくなるものだと思う。不思議な想像力が面白い一首である。

19日

雨、ぼくはぼくよりも不憫なひとが好きで窓から街を見ている

『オールアラウンドユー』木下龍也

負けたー。アジアカップのイラク戦。なんで左に南野おいたのよ。もう何回もそれやって、失敗してんじゃん。こういう日は日記も書けないなぁ。

歌集は異なるけれど、昨日に続いて木下龍也さんの、雨に語りかける短歌。この一首には、雨について人と話すのではなく、人について雨と話すという構図のおもしろさがある。「橋の裏を行く蜘蛛」という不思議な想像力の行き先と違って、窓越しに目の前を行き交う人に対して言及する方がより奇妙な気がする。

「雨、〜」はいろいろな短歌に使ってみたくなる、おもしろうそうなフォーマットだ。

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